教皇ベネディクト十六世の9回目の一般謁見演説 詩編124

6月22日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の9回目の一般謁見が行われました。謁見には31,000人の信者が参加しました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3月曜日の晩の祈りで用い […]

6月22日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の9回目の一般謁見が行われました。謁見には31,000人の信者が参加しました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3月曜日の晩の祈りで用いられる、詩編124(朗読個所は詩編124・1-6、8)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説の後、最後に行われたイタリア語での祝福の中で、教皇ベネディクト十六世は、前教皇ヨハネ・パウロ二世が決定した、第2回アフリカ特別シノドスの開催を確認して、次のように述べました。「わたしの敬愛すべき前任者が昨年11月13日に行った決定を確認して、わたしは第2回アフリカ特別代表司教会議(シノドス)を招集する意向を告げたいと望みます。この会議が、アフリカ大陸における福音宣教へのさらなる刺激となり、教会を強め成長させ、また和解と平和を促進することを希望します」。なお、同シノドスの開催時期は明らかにされませんでしたが、開催の準備には数年を要する見込みです。
第1回アフリカ特別シノドスは1994年4月10日から5月8日までバチカンで開催され、その後、シノドス後の使徒的勧告『アフリカにおける教会』が1995年9月14日に公布されました。
一般謁見の最後に、教皇はアフリカ代表司教会議特別評議会委員6名と謁見しました。


1 詩編124は、祈る会衆が声を合わせてささげる、感謝の賛歌です。この詩編は、救いの恵みを与えてくださったことを、神に賛美します。詩編作者は、初めに、次の招きのことばを述べます。「イスラエルよ、言え」(一節)。それは、すべての民が、生き生きと心から、救い主である神に感謝をささげるように促すためです。もしも主が民の味方でなかったら、たいした武力をもたない民は、自分たちを解放することができず、敵は怪物のように襲いかかって、彼らを引き裂き、散り散りにしたことでしょう。
 この詩編は、バビロン捕囚の終わりのような、特定の歴史的事件を踏まえたものだとされてきました。しかし、この詩編は、危険を乗り越えられたことを主に感謝し、すべての悪から救ってくださるように主に祈り求めるために、心からささげられた賛歌だと考えるのがよいように思います。

2 信じる者に逆らい、彼らを「生きながら呑み込む」(2-3節参照)こともできた者について冒頭で述べた後、詩編は2つの部分に分かれます。最初の部分では、激しい大水のことが述べられます。聖書の中で、大水は、破壊的な混沌(カオス)と悪と死を示す象徴です。「そのとき、大水がわたしたちを押し流し、激流がわたしたちを越えて行ったであろう。そのとき、わたしたちを越えて行ったであろう驕り高ぶる大水が」(4-5節)。今、詩編作者は、逆巻く海の怒りから奇跡的に救われて、岸辺にたどり着いたことを感じています。
 人のいのちは、悪を行おうと待ち構える者たちに取り囲まれています。彼らはいのちに襲いかかるだけではなく、すべての人間的な価値観を破壊しようと欲しています。しかし、主は手を下して、正しい者を心にかけ、助けてくださいます。詩編18がこう述べるとおりです。「主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ、大水の中から引き上げてくださる。敵は力があり、わたしを憎む者は勝ち誇っているが・・・・主はわたしの支えとなり、わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる」(詩編18・17-20)。

3 感謝の歌である、詩編124の第2の部分は、海のイメージから、狩りの情景に転換します。狩りは、詩編の多くの祈願の祈りでよく用いられる表現です(詩編124・6-8参照)。詩編は、獲物を歯でくわえた獣や、鳥をつかまえるためのわなを思い起こします。しかし、詩編の祝福のことばによって、信じる者の運命は――それは死の運命でもありますが――、救いの手が差しのべられることによって、完全に変わったことがわかります。「主をたたえよ、主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。仕掛けられた網から逃れる鳥のように、わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た」(6-7節)。
 ここで祈りは、魂の奥底からもれる、安堵のため息となります。人間のすべての希望がついえたときにも、神は力を現して解放してくださるからです。詩編は信仰告白でしめくくられます。この信仰告白は、すべての祈りにとっての、理想的な導きのことばとして、何世紀も前から典礼で用いられるようになりました。「わたしたちの助けは、天地を造られた主の御名にある」(8節)。全能の神は、特に、「昼も夜も叫び求めている」、しいたげられ、迫害された人の味方となり、彼らを「速やかに裁いてくださる」(ルカ18・7-8)のです。

4 聖アウグスチヌスは、この詩編について明快な注解を行っています。まずアウグスチヌスは、この詩編が、「聖なるものとされた、キリストの手足となった人びと」によって歌われるのにふさわしいものだといいます。特に「この詩編は聖なる殉教者たちによって歌われてきました。殉教者たちは、この世を離れることにより、キリストとともに幸福を味わっています。彼らは、以前には朽ちるべきものであった肉体を、朽ちることのないものとして再び受け取る用意ができているからです。彼らは、この世では肉体によって苦しみを受けましたが、これらの苦しみは、永遠の世においては、義の飾りへと変えられます」。
 しかし、次にヒッポの司教アウグスチヌスは、わたしたちもこの詩編を歌う希望があると述べます。アウグスチヌスはこう述べています。「わたしたちもまた、喜びをもって歌うことができるという、確かな希望によって励まされます。わたしたちも、この詩編を歌う人と無縁ではないのです。・・・・だから、皆、心を一つにして歌おうではありませんか。栄冠を与えられた聖人と同じように、わたしたちもまた、心を一つにして、同じ栄冠を与えられる希望をもとうではありませんか。わたしたちが待ち望む永遠のいのちは、この世で与えられるものではありません。しかし、まず待ち望まなければ、わたしたちはそれを与えられないのです」。
 それから聖アウグスチヌスは初めの話に戻って、こう解説します。「聖人たちは、自分たちが受けた苦しみを思い起こし、今自分たちが置かれている、至福と平和に満ちた場所から、歩んできた道を振り返ります。救い主が手を延ばして助けてくれなければ、彼らは救われることがありませんでした。そこで、彼らは喜びに満たされてこう叫びます。『主がわたしたちの味方でなかったなら』。こうして彼らは歌い始めます。彼らは自分たちが何から救い出されたかをいうことさえできません。彼らの喜びがあまりに大きいからです」(『詩編123注解』3:Nuova Biblioteca Agostiniana, XXVIII, Roma, 1977, p. 65)。

PAGE TOP