教皇ベネディクト十六世の10回目の一般謁見演説 エフェソ1

7月6日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の10回目の一般謁見が行われました。謁見には15,000人の信者が参加しました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3月曜日の晩の祈りで用い […]

7月6日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の10回目の一般謁見が行われました。謁見には15,000人の信者が参加しました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3月曜日の晩の祈りで用いられる、エフェソの信徒への手紙1・3-10(朗読個所はエフェソ1・3、7-8)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説の後、ポーランド語で行われた祝福の中で、教皇は、ポーランドからの巡礼者たちに向けてこう述べました。「先週(6月28日)、わたしたちの敬愛する神のしもべ、教皇ヨハネ・パウロ二世の列福調査手続きが開始されたことを喜ばしく思います。列福手続きが進展するよう、皆様のお祈りをお願いします」。
また、一般謁見の終わりにイタリア語で行われた祝福の中で、教皇は、「ベネディクトの平和の灯火(ともしび)」をローマに運んできた、ノルチアの代表者たちを歓迎しました。「ベネディクトの平和の灯火」は、聖ベネディクト(480頃~547/60年頃)の連帯と兄弟愛のメッセージを象徴するものとして、ヨーロッパの都市で点火され、ベネディクトの生地であるノルチア(ヌルシア)に運ばれます。30周年を迎える今年の灯火は、モスクワでアレクシー二世総主教の代理の前で点火され、ベネディクト十六世の生地であるドイツのマルクトル・アム・インを経て、7月5日晩にローマに到着し、6日にリッカルド・フォンタナ大司教によってバチカンに運ばれました。教皇はこう述べました。「平和の象徴であるこの灯火は、今日、使徒たちの墓地のかたわらにとどまった後、ノルチアへの旅を続けます。このすばらしい行事が、ヨーロッパにおけるキリスト教的価値観をあかしするための寛大な行動を、いっそう推進するものとなりますように」。
前週6月29日(水)は、33名の大司教にパリウムを授与するための教皇ミサが行われたため、一般謁見はありませんでした。また、教皇は7月11日(月)から28日(木)までヴァッレ・ダオスタ州のレ・コーンブで休暇をとるため、次の一般謁見は8月3日(水)に行われる予定です。


 

親愛なる兄弟姉妹の皆様。
1 今日、朗読されたのは、詩編ではなく、エフェソの信徒への手紙(エフェソ1・3-14参照)からとられた賛歌です。この賛歌は、週日のすべての月曜日の晩の祈りで用いられます。この賛歌は、父である神にささげられた祝福の祈りです。賛歌は、順々に、キリストのわざを通して実現された救いの計画のさまざまな段階を述べていきます。
 祝福の中心で用いられているのは、ギリシア語の「ミュステーリオン(神秘)」ということばです。このことばは、通常、啓示することを表す動詞(「啓示する」「知らせる」「明らかにする」)とともに用いられます。実にこの神秘は、偉大な計画として、世の初めから父の内に秘められていました(9節参照)。父はこの計画を、御子イエス・キリストによって「時が満ちるに及んで」(10節参照)実現し、啓示しようとお決めになりました。
 この計画が実現される段階を、賛歌は、神がキリストによって聖霊のうちに行う救いのわざとして述べています。まず父は――これが最初のわざですが――、世の初めから、わたしたちを愛して、聖なる者、汚れのない者にしようと、わたしたちをお選びになりました(4節参照)。それから神は、わたしたちを神の子にしようと、前もってお定めになりました(5-6節参照)。さらに神は、わたしたちをあがない、わたしたちの罪をゆるされました(7-8節参照)。神は、キリストのうちに救いの神秘をすべてわたしたちに知らせてくださいました(9-10節参照)。最後に、神は、わたしたちを永遠から約束されたものの相続者とされました(11-12節参照)。そのために神は、終わりの日の復活を仰ぎ見るための保証として、聖霊のたまものを、前もってわたしたちに与えてくださいました(13-14節参照)。

2 それゆえ、この賛歌が次々と述べる救いの出来事は、たくさんあります。この出来事は、至聖なる三位一体の三つの位格によって行われます。まず、わざを始められるのは、父です。父は、救いの計画の創始者であり、最高の実現者だからです。賛歌は御子に目をとめます。御子は、歴史の中でこの計画を実現するからです。最後に聖霊が、すべての救いのわざに「証印」を押します。ここでは、最初の二つの段階について、簡単に考えてみたいと思います。すなわち、わたしたちが聖なる者とされたことと、神の子とされたことです(4-6節参照)。
 キリストによって啓示され、実現された、神の最初のわざは、信じる者を選んだことです。この選びは、神の自由で無償のたまものとして与えられました。初めから、それゆえ「天地創造の前に」(4節)、神の永遠の初めから、神の恵みが実現される用意はできていました。この真理を黙想するとき、わたしは感動を覚えます。永遠の初めから、神はわたしたちに目を注ぎ、わたしたちを救おうと決めておられたのです。神のこの招きが求めている内容は、わたしたちの「聖性」です。「聖性」とは、なんと偉大なことばでしょうか。聖性とは、純粋に神の存在にあずかることです。そして、わたしたちは神が愛であることを知っています。それゆえ、純粋な意味で神にあずかるとは、神の「愛」にあずかることにほかなりません。すなわち、「愛」である神に似せて、わたしたちが形作られることにほかなりません。
 「神は愛です」(一ヨハネ4・8、16)。この真理はわたしたちを慰めます。この真理によって、わたしたちはまた、「聖性」がわたしたちの生活とかけ離れた現実ではないこと、それどころか、わたしたちが神を愛する者となることができればできるほど、わたしたちが「聖性」の神秘に入るということを、理解することができるからです。こうして、「アガペー(愛)」は、わたしたちの日々の現実となります。それゆえ、わたしたちは、神ご自身の、聖なる、生きたあり方へと招かれているのです。

3 そこからわたしたちは、神が同じように永遠の初めから計画しておられた、次の段階へと進みます。すなわち神が、わたしたちを神の子として「前もってお定めになった」ということです。わたしたちは、人間として造られただけでなく、神の子として、ほんとうの意味で神に属する者なのです。
 パウロは別の箇所で(ガラテヤ4・5、ローマ8・15、23参照)、この、神の子とされるという最高のあり方をたたえています。わたしたちが神の子とされたのは、わたしたちがキリストの兄弟とされたことに基づきます。キリストは最高の意味での子、すなわち、「多くの兄弟の中で長子となられた」(ローマ8・29)かただからです。また、わたしたちが神の子とされたのは、天の父と親しく交わることができるようになったことにも基づいています。わたしたちは今や、天の父を、「アッバ、父よ」と呼ぶことができるからです。すなわち、天の父を、真の意味での神への親しみを表しながら、心から、愛をこめて、「愛する父」と呼ぶことができるからです。ですから、わたしたちは途方もなく大きなたまものを与えられています。このたまものは、神から「み心のままに」、「恵み」としてのみ、初めて与えられることができたものです。「み心のままに」と「恵み」は、救いをもたらす愛をはっきりと表すことばです。

4 終わりに、ミラノの偉大な司教である、聖アンブロジオのことばに耳を傾けたいと思います。アンブロジオは、一つの手紙の中で、使徒パウロのエフェソの信徒への手紙のこの箇所について注解を加え、ここで取り上げたキリスト賛歌の豊かな内容を正確に考察しています。アンブロジオが何よりも強調しているのは、神がキリスト・イエスによってわたしたちを神の子としてくださったという、あふれるほど豊かな恵みです。「それゆえ、からだがかしらに結ばれていることは、疑う余地がありません。なぜなら、わたしたちは初めから、イエス・キリストによって、神の子となるように前もって定められていたからです」(『イレネウスへの手紙16』4:Sancti Ambrosii episcopi Mediolanensis opera, XIX, Milano-Roma, 1988, p. 161)。
 ミラノの聖なる司教は、続けて次のように考えを述べています。「万物の造り主である神おひとり以外に、誰を豊かな者ということができるでしょうか」。それからアンブロジオはこうしめくくります。「しかしながら、神はあわれみにおいていっそう豊かなかたです。神は、肉の本性に従えば、神の怒りを受けるべき者であり、罰を受けるほかない者だったわたしたちを、あがない、作り変えて、平和と愛の子らとなるようにしてくださったからです」(同7:ibid., p. 163)。

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