教皇ベネディクト十六世の11回目の一般謁見演説 詩編125

8月3日(水)午前10時30分から、教皇庁パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の11回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3火曜日の晩の祈りで用いられる、詩編125(朗読個所は詩編12 […]

8月3日(水)午前10時30分から、教皇庁パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の11回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3火曜日の晩の祈りで用いられる、詩編125(朗読個所は詩編125・1-5)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
この日の謁見には、ドイツで行われた神学・霊性セミナーに参加していた、中国の司祭、神学校校長と霊的指導者計28名が参加し、教皇からの祝福が述べられました。
教皇は、7月11日から28日までのヴァッレ・ダオスタ滞在を終えた後、7月28日に、教皇の夏季滞在先である、カステル・ガンドルフォの教皇別邸に移りました。カステル・ガンドルフォは、ローマから南に26キロの、カステリ・ロマーニ丘陵地帯の一角に位置します。標高426メートルの小高い町の中心にある、現在の教皇別邸は1626年に建てられたものです。ベネディクト十六世が、教皇就任後初めて同地を訪れたのは、5月5日でした。


1 ヴァッレ・ダオスタでのわたしの休暇が終わり、わたしたちはまた、この集いをもって、晩の祈りの旅を続けます。今日、わたしたちが取り上げるのは、詩編125です。この詩編は、「都に上る歌」として知られる、情熱的で意味深い詩編集の一部をなしています。「都に上る歌」は、神殿で主に見(まみ)えることを願ってシオンに上る巡礼者のための、優れた小祈祷書です(詩編120-134参照)。
 わたしたちは今日、簡単に、この知恵に満ちたテキストを考察してみたいと思います。このテキストは、主に信頼することへの招きであり、短い祈りを含んでいます(詩編125・4参照)。
 詩編の冒頭は、「主に依り頼む人」は揺るぐことがないと述べています。「主に依り頼む人」は、揺るぎなく据えられた「シオンの山」にたとえられます。シオンの山は「揺らぐこと」がないからです。このような揺るぎなさが、神の現存にふさわしいものであることは明らかです。別の詩編が述べているように、神は「岩、砦(とりで)、逃れ場」、「避けどころ」、「盾(たて)、救いの角、砦の塔」(詩編18・3)だからです。
 信じる者は、たとえ自分が独りきりだと感じ、さまざまな危険や敵意に取り囲まれていても、その信仰は変わることがありません。主がいつもわたしたちと共にいてくださり、主の力がわたしたちを包み、わたしたちを守ってくださるからです。
 預言者イザヤも、彼が聞いた、神が信じる者に向けて語られたことばをあかしして、こう述べています。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎(いしずえ)の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない」(イザヤ28・16)。

2 けれども、詩編作者は続けていいます。信じる者の信仰の中心をなしている信頼は、それ以上の支えを与えられています。主は、その民を守るために、いわば砦を作ります。それはちょうど、エルサレムを囲む山々が、自然の要塞をなしているのと同じです(詩編125・2参照)。ゼカリヤの預言では、神はエルサレムにこういっています。「わたし自身が町を囲む火の城壁となる・・・・。わたしはその中にあって栄光となる」(ゼカリヤ2・9)。
 このような深い信頼と信仰のうちに、詩編作者は「心のまっすぐな人」すなわち信じる者に、安心するようにと呼びかけます。信じる者を取り巻く状況そのものは、苦悩に満ちています。よこしまな者がほしいままに力を振るって、その支配を及ぼそうとしているからです。
 正しい人も、大きな苦しみに遭うことを避けるために、悪と共謀する誘惑にさらされることがありえます。しかし、主は彼らを迫害から守ってくださいます。「主に従う人に割り当てられた地に、主に逆らう者の笏(しゃく)が置かれることのないように」(詩編125・3)。同時に、主は、主に従う人を、悪に手を伸ばす誘惑から守ります(同参照)。
 このようにして、詩編は深い信頼を心に植えつけます。それは、困難な状況に直面したときの力強い助けとなります。信じる者が味わう、孤立、皮肉、侮辱といった外的な危機は、失望、劣等感、倦怠といった内的な危機と結びつくからです。わたしたちもこのような状況に陥ることがあります。しかし、詩編はわたしたちに、信頼していれば、わたしたちはこれらの悪に打ち勝つことができることを教えます。

3 詩編は終わりに、「良い人、心のまっすぐな人」のために主に祈りをささげ(4節参照)、「よこしまな者」、「悪を行う者」の不幸について語ります(5節)。
 一方で、詩編作者は、正しい者、信じる者に、恵み深い父としての姿を現してくださるようにと、主に願います。彼らは、正しい生活と清らかな良心のたいまつを、高く掲げるからです。
 他方で、詩編作者は、よこしまな悪の道を歩む者に、主が正しい裁きを下すようにという希望を表明します。悪の道は、ついには死をもたらすからです。
 詩編は、伝統的な祝福のあいさつで結ばれます。「イスラエルの上に平和がありますように」。この祝福のあいさつ(シャローム)は、「エルサレム(エルーシャライム)」(2節参照)と韻を踏んでいます。エルサレムは、平和と聖性の象徴だからです。
 この祝福のあいさつは、希望を表す祈りとなります。わたしたちは聖パウロのことばによって、それを説明できます。「神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように」(ガラテヤ6・16)。

4 この詩編についての注解の中で、聖アウグスチヌスは、「よこしまな自分の道にそれていく者」を、神から道をはずれることのけっしてない、「心のまっすぐな人」と比べています。「よこしまな自分の道にそれていく者」が「悪を行う者」と運命を共にするのなら、「心のまっすぐな人」の運命は、いかなるものとなるのでしょうか。聖アウグスチヌスは、自分の聴衆とともに、自分もこのような人々の幸いな運命にあずかれることを希望しながら、こう問いかけます。「わたしたちは何を与えられるのでしょうか。わたしたちの受け継ぐものは何でしょうか。わたしたちの帰るところはどこでしょうか。それはどのように呼ばれるのでしょうか」。
 それから、アウグスチヌスは、その名前を示しながら、こう答えます。わたしはそれを自分のことばとしたいと思います。「それは平和です。わたしたちは平和を願いながら、皆さんを祝福します。わたしはあなたがたの上に平和を告げ知らせます。山々に平和が与えられ、丘々が正義で満たされますように(詩編72・3)。いまや、わたしたちの平和はキリストです。『実に、キリストはわたしたちの平和であります』(エフェソ2・14)」(『詩編注解』4: Nuova Biblioteca Agostiniana, XXVIII, Roma, 1977, p. 105)。
 聖アウグスチヌスは、終わりに、願いをこめて、次の勧告を述べています。「わたしたちは神のイスラエルです。わたしたちを平和にしっかりと結びつけようではありませんか。エルサレムは平和を見るという意味だからであり、わたしたちはイスラエルだからです。イスラエルの上に平和がありますように」(ibid., p. 107)。そして、平和とはキリストです。

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