教皇ベネディクト十六世の12回目の一般謁見演説 詩編131

8月10日(水)午前10時30分から、教皇庁パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の12回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3火曜日の晩の祈りで用いられる、詩編131(朗読個所は詩編1 […]

8月10日(水)午前10時30分から、教皇庁パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の12回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3火曜日の晩の祈りで用いられる、詩編131(朗読個所は詩編131・1-3)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
この日の謁見には、ケルンで行われる第20回ワールド・ユース・デー国際大会に参加する途中でローマを訪れた、名古屋教区の青年たちも参加しました。


 

1 今日、朗読されたのは、詩編131の、ヘブライ語原文で約30語にすぎない短い箇所です。けれども、この箇所は重要です。それは、あらゆる宗教文学に見られる主題を含んでいるからです。すなわち、「霊的な幼子」という主題です。わたしたちは自然に、リジューの聖テレーズ(幼いイエスの聖テレジア)とその「小さい道」、イエスの腕に抱かれるために「小さなものにとどまる」という彼女の思想を思い起こします(『自叙伝』原稿C、2r-3v: Opere complete, Città del Vaticano, 1997, pp. 235-236)。
 実際、この詩編の中心で述べられる、母と幼子というはっきりとした表現は、神の優しい母としての愛を表しています。預言者ホセアがすでに次のように述べている通りです。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。・・・・わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎(あご)から軛(くびき)を取り去り、身をかがめて食べさせた」(ホセア11・1、4)。

2 この詩編は初めに、幼子とまったく反対の態度を述べます。幼子は、自分の弱さを知っているので、人の助けに頼ります。その反対に、詩編で描かれるのは、驕(おご)った心、尊大に高く見上げるまなざし、そして、「大き過ぎること」、「わたしの及ばぬ驚くべきこと」です(詩編131・1参照)。ここで述べられているのは、「傲慢」や「尊大さ」を表すヘブライ語で語られる、傲慢な人であり、また、他人を見下し、人を自分より劣ったものとみなす人の尊大な態度です。
 人には、神のようになって、善と悪を知るものとなりたいという、傲慢への強い誘惑があります(創世記3・5参照)。唯一の主に対して謙遜に心から信頼を置くことを選んだ、祈りの人は、このような誘惑を決定的に退けるのです。

3 こうして、わたしたちは、母と幼子という、忘れることのできない表現に至ります。ヘブライ語の原文がいっているのは、乳児ではなく、「乳離れした」子どもです(詩編131・2)。ところで、古代中近東では、子どもの正式な乳離れを特別に祝うことが知られています。この祝いは、通常、約3歳のときに行われます(創世記21・8、サムエル記上1・20-23、マカバイ記二7・27参照)。
 そこで、詩編作者が述べる幼子は、いまや個人的かつ親密なきずなによって母親と結ばれることになります。幼子は、ただ身体的な接触や、食事を与える必要だけによって母親と結ばれているのではないからです。このきずなは、より意識的に結ばれたきずなです。にもかかわらず、そのきずなは、直接に、心から結ばれています。それは、真の意味での「幼子」の心を表す、この上なく優れた表現です。「幼子」は、盲目的かつ自動的にではなく、落ち着いて、責任をもって、自らを神に委ねるのです。

4 そこから、祈る人が行う「わたしはより頼みます」という宣言は、全共同体にまで広げられます。「イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに」(詩編131・3)。神から安らぎといのちと平和を与えられた民全体において、いまや希望は花開き、現在から未来へと広がります。「今も、そしてとこしえに」。
 この祈りに、同じ神への信頼に基づいて語る、他の詩編のことばを補うことは、簡単です。「母がわたしをみごもったときから、わたしはあなたにすがってきました」(詩編22・11)。「父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます」(詩編27・10)。「主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み、母の胎にあるときからあなたに依りすがって来ました」(詩編71・5-6)。

5 すでに述べたように、謙遜に示される信頼は、傲慢の反対です。4世紀のキリスト教著作家であるヨハネス・カッシアヌスは、傲慢の悪徳について、信者にこう警告しています。「傲慢の悪徳は、すべての徳を破壊します。傲慢は、生ぬるく弱い人を襲うだけではありません。傲慢がとりわけ襲いかかるのは、頂上に上ろうと努める人です」。
 カッシアヌスは続けてこう述べています。「だから、聖なるダビデはその心を細心の注意をもって守ろうとしたのです。ダビデはついに、自分の良心の秘密のいかなるものもその前で隠すことのできないかたに、こう告白するに至ります。『主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません』。・・・・けれども、ダビデは、完全な人にとってさえ、そのように自らを守ることがどれだけむずかしいかを知っていました。それで彼は、自分の力だけに頼ろうとは思いませんでした。かえって、敵の矢に当たらず、敵の矢に傷つけられずにすむように、自分を助けてくださるよう、主にこう祈り求めたのです。『驕る者の足がわたしに迫ることを許さないでください』(詩編36・12)」(『共住修道制規約』12・6:Le istituzioni cenobitiche, Padova, 1989, p. 289)。
 同様に、氏名不詳の砂漠の師父の次のようなことばが伝えられています。このことばにも、詩編131 がこだましているのが認められます。「わたしはけっして自分の地位を越えたところへと歩もうとしたことはない。またわたしは、辱められることを気にとめたこともない。なぜなら、わたしは一つのことだけを考えているからだ。この老人からわたしを取り去るように、主に祈るということだけを」(『砂漠の師父のことば』:I Padri del Deserto. Detti, Roma, 1980, p. 287)。

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