教皇ベネディクト十六世の13回目の一般謁見演説 詩編126

8月17日(水)午前10時30分から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ中庭で、教皇ベネディクト十六世の13回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3水曜日の晩の祈りで用いられる、詩編126( […]

8月17日(水)午前10時30分から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ中庭で、教皇ベネディクト十六世の13回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3水曜日の晩の祈りで用いられる、詩編126(朗読個所は詩編126・1-5)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説の後、教皇は、まず、16日(火)にフランスのテゼで殺害された、テゼ共同体の創立者ブラザー・ロジェ・シュッツ(享年90歳)についての哀悼のことばを述べました。このことばの中で、教皇は前日の16日に、ブラザー・ロジェから受け取った「感動的で心のこもった手紙」の内容を紹介しました。手紙の中で、ブラザー・ロジェは、「わたしたちは教皇様と、またケルンに集まる人びととの交わりのうちにあります」と述べ、また、自分自身は健康上の理由でケルンに行くことはできないが、兄弟たちとともに霊的に参加したいとの意向を述べていたそうです。ブラザー・ロジェはさらに、できるだけ早くローマで教皇と謁見し、「テゼ共同体が教皇との一致に向けて前進することを望んでいることを申し上げたい」と書いていたとのことです。教皇ベネディクト十六世は、首席枢機卿として司式した、4月8日の教皇ヨハネ・パウロ二世の葬儀ミサの際、葬儀ミサに参加した、プロテスタントの司牧者であるブラザー・ロジェに聖体を授けています。なお教皇は、18日(木)から21日(日)まで、ケルンで行われる第20回ワールド・ユース・デーに参加するため、教皇として初めてのイタリア国外司牧訪問を行います。
この日の一般謁見では、教皇が、イタリアからの巡礼者に対するイタリア語での挨拶と、最後の祝福を忘れて、謁見を行った二階の窓から巡礼者に別れを告げた後、再び姿を現して、巡礼者たちに詫びるという一幕もありました。教皇は笑いながらこう述べました。「皆様にお詫びします。いちばん大事な、イタリアの皆様への祝福の挨拶を申し上げるのを忘れていました」。イタリア語での挨拶を終えて、巡礼者に別れを告げた教皇は、側近に促されて、もう一度巡礼者の前に姿を現してこう述べました。「今日、わたしはいちばん大事なことを忘れていました。わたしはもう半分ケルンに行ってしまっていたようです。わたしはこういわれたのです。『教皇様、いちばん肝心な、祝福をお忘れです』」。


1 詩編126のことばを聞くと、イザヤ書の第2部で歌われている、「新しい出エジプト」の出来事を目の当たりにしているような印象を受けます。「新しい出エジプト」とは、前538年のペルシア王キュロスの勅令に従って、イスラエルが、捕われていたバビロンから父祖の地に帰還したという出来事です。こうしてイスラエルは、ヘブライ人がエジプトでの奴隷状態から解放された、最初の出エジプトの喜びを再び経験しました。
 この詩編は、イスラエルが再び試練を受け、脅威と恐れにさらされている日々に歌われるとき、特別な意味をもつものとなりました。実際、この詩編には、このような試練に遭っている捕われ人が連れ帰られることを求める祈りが含まれています(4節参照)。それゆえ、この詩編は、歴史を旅する神の民の祈りです。神の民は、多くの危難と試練に遭いながら、常に心から神を信頼しています。神は救い主、解放者として、弱い者、抑圧された者を支えてくださるからです。

2 この詩編には、喜びを味わう人物が登場します。彼は解放されたことを喜んで笑い、舌で喜びの歌を歌います(1-2節参照)。
 自由が回復されたことに対して、ここでは二つの反応が示されています。まず、異教の国々が、イスラエルの神の偉大さを認めます。「主はこの人びとに、大きな業を成し遂げられた」(2節)。選ばれた民の救いは、神が現実に力強く存在するかたであり、歴史の中で民とともにあって働くかたであることを、はっきりと証明するからです。他方で、神の民は、自分たちを救う主に対する、彼らの信仰を告白します。「主よ、わたしたちのために大きな業を成し遂げてください」(3節)。

3 それから、思いは過去に向かい、恐れと苦難に震えていた日々が思い起こされます。わたしたちは、詩編作者が、農業からとられたたとえを用いていることに注意したいと思います。「涙とともに種を蒔く人は、喜びの歌とともに刈り入れる」(5節)。重い労苦を担う人の顔は、涙に濡れることもあります。労苦して種を蒔いても、それが無駄になり、失敗に終わることがあります。しかし、豊かな実りを得て喜ぶとき、労苦が無駄でなかったことがわかります。
 詩編のこの節には、大きな教訓が凝縮されたかたちで示されています。それは、苦しみが実り豊かないのちを含むという神秘を語るのです。イエスが、受難と死に向かうときに、こういわれた通りです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12・24)。

4 こうして詩編は、収穫の祭りを待ち望みます。収穫の祭りは、神の祝福によってもたらされる、自由と平和と富から生まれる喜びを表します。それゆえ、この詩編の祈りは、希望の歌だということができます。試練と恐れ、外からの脅威と内からの苦悩にさらされた時に、人はこの希望を頼みとしなければなりません。
 同時に、この詩編をもっと広い意味で、信頼のうちに日々を送り、自らの選んだ道を歩むようにという呼びかけと考えることもできます。誤解や反対に遭っても、忍耐して善い業を行い続けるなら、かならずや光と実りと平和へと導かれるのです。
 聖パウロがガラテヤの信徒に思い起こさせたのも、まさにこのことでした。「霊に蒔く者は、霊から永遠のいのちを刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります」(ガラテヤ6・8-9)。

5 終わりに、聖ベーダ・ウェネラビリス(672/3-735年)が詩編126について行った考察に耳を傾けたいと思います。ベーダはそこでイエスのことばを注解しています。イエスは、弟子たちに向かって、彼らがやがて悲しみを味わうこと、また、同時に、その悲しみから喜びが湧き出ることを告げました(ヨハネ16・20参照)。
 ベーダはこう述べます。「キリストを愛していた者たちは泣き悲しみました。彼らは、キリストが敵に連れ去られ、縛られ、裁きにかけられ、罪に定められ、鞭打たれ、あざけられ、ついに十字架につけられ、槍で刺し貫かれ、葬られたのを見たからです。逆に、世を愛していた者たちは喜びました。彼らは、自分たちが見るだけでも不快に感じた者を、恥ずべき死に定めたからです。弟子たちは主の死によって悲しみに沈みましたが、主の復活を知ると、彼らの悲しみは喜びに変わりました。それから、彼らは昇天の奇跡を目にして、いっそう大きな喜びに満たされながら主をほめたたえました。福音書記者ルカがあかししている通りです(ルカ24・53参照)。けれども、これらの主のことばは、すべての信者にあてはまるものです。信者は、世について嘆き悲しみながら、永遠の喜びに達することを求めています。また、彼らは今は当然のことながら泣き悲しんでいます。なぜなら、彼らは自分たちが愛しているかたをまだ見ることができないからです。そしてまた、彼らは肉体のうちに生きているあいだは、自分たちの故郷である神の国からはるかに離れたところにいることを知っているからです。けれども彼らは、労苦と苦しみを通じて、自分たちが賞を得られることを確信しています。彼らの悲しみは喜びに変わります。彼らはこの世での苦しみを終えて、永遠のいのちの報いを得るからです。詩編がこう述べている通りです。『種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる』」(『福音書説教集』2・13: Collana di Testi Patristici, XC, Roma, 1990, pp. 379-380)。

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