教皇ベネディクト十六世の ワールド・ユース・デー・ケルン大会の前晩の祈りの講話

2005年8月20日(土)午後8時から、ケルン郊外のマリエンフェルトで、教皇ベネディクト十六世の司式により、ワールド・ユース・デー・ケルン大会の前晩の祈りが行われました。前晩の祈りには80万人の青年が参加しました。以下に訳出するのは、教皇の講話の全文です。教皇の講話は、ドイツ語、英語、フランス語、スペイン語、イタリア語で行われました。前晩の祈りは、聖体礼拝でしめくくられました。


親愛なる友人である青年の皆さま

 東方から来た、神秘的な占星術の学者たちとともに旅してきたわたしたちは、聖マタイがその福音書の中に次のように述べた瞬間に到達しました。「家(星はその上に止まりました)に入ってみると、幼子は母マリアとともにおられた。彼らはひれ伏して幼子を拝んだ」(マタイ2・11)。外面的に見ると、学者たちの旅はこれで終わりました。彼らは目的地に到達したのです。
 しかし、このとき彼らにとっての新しい旅が始まりました。それは内的な旅です。この内的な旅は、彼らの全人生を変えました。彼らが心で思い描いていた、王として生まれた幼子の姿は、かなり違うものだったにちがいありません。占星術の学者たちは、エルサレムに来ました。それは、その地に住む王に、約束された王が生まれたという知らせについて尋ねるためでした。彼らは、世が乱れていることを知っていました。だから、彼らの心は不安でした。彼らは、神が存在すること、また、その神が公正で柔和なかたであることを確信していました。さらに、彼らは、イスラエルの偉大な預言についても知っていたのでしょう。それらの預言は、心から神と結ばれ、世の秩序を立て直すために、神の代わりに、神の名でわざを行う王について預言していました。
 占星術の学者たちが旅立ったのは、この王を探すためでした。彼らは心の奥深くで、神のみに由来しうる正義を探すように促されるのを感じていました。そして彼らは、この王に仕え、その足元にひれ伏し、世を新たにするために自分たちの使命を果たすことを望んでいました。彼らは「義に飢え渇く人々」(マタイ5・6)の一人だったのです。この飢えと渇きが、彼らを旅へと駆り立てました。彼らは正義を求めて巡礼者となりました。彼らはこの正義が神から与えられることを望み、この正義への奉仕に努めることを目指しました。

神の道は、わたしたちの道ではない

 家から外に出ない人から見れば、占星術の学者たちは、見果てぬ夢を夢見る人のように思われたかもしれません。けれども、占星術の学者たちは、実際に地に足を着けた人々でした。彼らは、世界を変えるためには、力をもたなければならないことを知っていました。だからこそ、彼らはほかならぬ王宮に、約束された幼子を探そうとしました。しかしながら、いまや彼らは、貧しい人が生んだ幼子の前に額ずいています。そして、すぐに彼らには、彼らが相談したヘロデ王が、その権力を用いて、この幼子を罠(わな)に陥れることをたくらみ、幼子の家族が逃れなければならなくなることが、わかりました。
  今、占星術の学者たちがおがんでいる新しい王の姿は、彼らの期待とかなり違いました。こうして彼らは、神の姿は、わたしたちが普通想像するものと異なることを知りました。そこから、彼らの内的な旅が始まりました。この内的な旅は、彼らがこの幼子の前にひざまずき、この幼子こそ、約束された王であることを知った瞬間に始まりました。しかし、彼らはさらに、幼子の前にひざまずく喜びを、内的な意味で自分のものとしなければならなかったのです。(以上ドイツ語。以下、英語)
  彼らは、力、神、人間について、自分たちが抱いていた考えを変えなければなりませんでした。また、それと同時に、彼らは自分自身をも変えなければなりませんでした。こうして彼らは、神の力が、この世の力と異なることを知るに至りました。神の道は、わたしたちが思い描くような道でもなければ、わたしたちがこうあってほしいと願うような道でもありません。神は、地上の権力と競おうとして、この世に来たのではありません。神は他の国があるところに、もう一つの自分の国を作ろうとするわけではありません。神は、オリーブの園にいるイエスを助けるために、十二軍団の天使を送りませんでした(マタイ26・53参照)。神は、騒がしく仰々(ぎょうぎょう)しいこの世の権力に対して、無防備な愛の力を示しました。この愛は、十字架の上で死ぬに至るまで示されました。またそれは、すべての歴史を通じて、たえず新たな死をもって示されます。けれども、この愛によって、神は新たなわざを行われます。このわざが、不正に打ち勝ち、神の国を導きます。
  神の道は、わたしたちの道と違う。これが、占星術の学者たちが知ったことです。そのことはまた、彼ら自身も違ったものとならなければならないことを意味しています。彼らは神の道を学ばなければならないのです。
  占星術の学者たちは、この王に仕える者となります。彼らは、自分たちの王としての姿を、この王に倣って作り変えます。それが、彼らがおがむこと、すなわち礼拝することによって示そうとしたことでした。彼らは礼拝のために、黄金、乳香、没薬をささげます。これらは、王が神であることを認めてささげられた、ささげものです。礼拝とは、誰かに何かをささげることです。このように礼拝することを通して、東方から来た占星術の学者たちは、幼子が自分たちの王であることを認め、自分たちの力と能力を、幼子に使っていただくためにささげます。こうして彼らは、確かに正しい道を選びました。
  幼子に仕え、幼子に従うことによって、彼らは、幼子とともに、世にあって、善と正義に仕えようと望みました。それゆえにこそ、彼らは正しかったのです。
  けれども、いまや彼らは、ただ王座の高みから命令を下すだけでは、こうしたことを成し遂げることができないことを学ばなければなりません。いまや彼らは、自分をささげることを学ばなければなりません。自分自身をささげるのでなければ、この王には不十分だからです。いまや彼らは、自分たちの人生を、神が力を用いるやり方、すなわち神のあり方に従って形作ることを学ばなければなりません。
  彼らは、真実の人、正義の人、いつくしみの人、ゆるしの人とならなければなりません。彼らはもはや「どうすればこれがわたしの役に立つのか」と問うことはありません。代わりに彼らはこう問うのです。「世にあって、わたしはどうやって、わたしたちとともにおられる神に仕えることができるだろうか」。彼らは自分のいのちを失うことによって、自分のいのちを見いだすことを学ばなければなりません。エルサレムを後にした占星術の学者たちが、真の王によって示された道をはずれることはけっしてありません。彼らはイエスに従うからです。(以下、フランス語)

星の導きに従う

 親愛なる友人の皆様。これらすべてのことは、わたしたちにとって、いかなる意味をもつのでしょうか。
  わたしたちは今、神の姿がわたしたちと異なり、わたしたちの生き方を神の姿に従って形作らなければならないと述べました。それは、ことばは美しく聞こえますが、依然としてあいまいで、いわんとするところがよくわかりません。だから、神はたとえを示されるのです。東方から来た占星術の学者たちは、人生の中で、神の導きの星を常に見つめ続けようと努めた、多くの人々の初めにすぎません。彼らは、わたしたち人類に近づき、わたしたちに道を示してくださる神を探しました。
  それは大きな聖人の群れです。そこには、わたしたちが名前を知っている聖人もいれば、名前を知らない聖人もいます。主はこれらの聖人たちの生涯を通して、わたしたちの前で福音を開き、そのページをめくりました。主は歴史を通じてそのようにしてこられましたし、現代もそのようにしておられます。聖人たちの生涯を通して、あたかも絵本のように、福音の豊かさが示されました。聖人たちは、歴史を通じて神がたどる輝く道です。神は現代もこの道をたどっています。
  わたしの敬愛すべき前任者であるヨハネ・パウロ二世は、昔の人も、最近の人も含めて、きわめて多くの人を列福・列聖しました。これらの一人ひとりの聖人を通して、ヨハネ・パウロ二世は、キリスト者であるとはいかなることであるかを、わたしたちに示そうと望んだのです。人生を正しいしかたで生きるには、すなわち神の道に従って生きるには、どうすればよいかを、示そうと望んだのです。聖人や福者たちは、自分の幸福を絶えず求めたのではありません。彼らはただ、自分をささげることだけを望みました。キリストの光が彼らを照らしたからです。
  聖人たちは、幸福になるための道をわたしたちに示しました。彼らは、どうすれば本当の意味で人間的になれるかを、わたしたちに示しました。移り変わる歴史を通して、真の意味での改革者となったのは、聖人たちです。闇の谷間に落ちることから歴史を救ったのは、聖人たちです。歴史の中に絶えず光を注いできたのは、聖人たちです。苦しみのさなかにあっても、神が創造のわざを終えて語ったことばが意味をもつために、わたしたちはこの光を必要としているからです。「それはきわめて良かった」。
  いく人かの聖人たちの姿を思い起こしてみるだけで十分です。聖ベネディクト、アシジの聖フランシスコ、アビラの聖テレジア、聖イグナチオ・デ・ロヨラ、聖カロロ・ボロメオ、19世紀に修道会を創立して、社会運動を始め、導いた人々。あるいは、現代の聖人たち――マキシミリアノ・コルベ、エディット・シュタイン、マザー・テレサ、(ピエトレルチーナの)ピオ神父。これらの人々を仰ぎ見ることによって、わたしたちは「礼拝する」とはどういうことであるかを学びます。わたしたちは、ベツレヘムの幼子の生き方に従って、すなわち、イエス・キリストに倣って、神ご自身に倣って生きるとはどういうことであるかを、学ぶのです。(以下、スペイン語)

聖人たちは、真の意味での改革者である

 すでに述べたように、聖人たちは、真の意味での改革者です。ここでわたしは、もっと徹底したしかたで、このことを言い表したいと思います。真の意味での革命を成し遂げることができるのは、聖人たちだけであり、また、神だけです。彼らだけが、決定的なしかたで世界を変革するのです。前世紀に、わたしたちはいくつもの革命を経験しました。それらは共通の計画を伴うものでした。すなわち、革命は、神からもはや何も期待することをせず、世界を変革するために、世のことがらに関して全責任をとろうとしたのです。わたしたちは、それによって、人間の部分的なものの見方が、常に絶対的な指導原理とみなされることになったと考えます。わたしたちは、絶対的ではなく、相対的にすぎないものを、絶対化することを、全体主義と呼びます。全体主義は、人間を解放するどころか、人間の尊厳を奪い、人間を奴隷化します。
  世界を救うのはイデオロギーではありません。生ける神に戻ることが、世界を救うのです。神は、わたしたちを造り、わたしたちの自由を守り、本当の意味で善にして真実であることを守るかただからです。真の意味での革命はただ、神に向かうことによってのみ可能です。神は、何が正しいかを計る秤(はかり)であり、同時にまた、絶えることのない愛だからです。また、愛から離れて、何がわたしたちを救うことができるでしょうか。(以下、イタリア語)
  親愛なる友人の皆様。あと二つのことだけ、いわせてください。
  神について語る多くの人がいます。ある人は、神の名によって、憎しみをあおり、暴力をふるうことさえあります。そこで、真の意味での神のみ顔を見いだすことが大事です。東方から来た占星術の学者たちは、ベツレヘムの幼子の前にひざまずいたときに、このみ顔を見いだしました。イエスはフィリポにこういっています。「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14・9)。イエス・キリストは、わたしたちのために、ご自身の胸を刺し貫かせました。だから、このかたのうちに、真の意味での神のみ顔を見ることができるのです。わたしたちに先立つ多くの人々とともに、このかたに従いましょう。そうすれば、わたしたちは正しい道を歩むことができるでしょう。
  したがって、わたしたちは自分だけの神、自分だけのイエスを作るのではないということです。わたしたちが信じ、礼拝するイエスは、聖書によってわたしたちに示されたイエスです。このイエスは、教会と呼ばれる、信者の偉大な歩みのうちに生きておられ、わたしたちとともに、いつもわたしたちに先立って歩いていることを、示してくださいます。
  教会の中には、批判しうることがたくさんあります。わたしたちはそのことを知っていますし、主ご自身が、そのことをわたしたちに告げておられます。網には、よい魚も悪い魚も入っています。畑には、よい麦も毒麦もまかれているのです。

失敗にもかかわらず、希望する

 教皇ヨハネ・パウロ二世は、自分が列聖した多くの聖人たちによって、教会の真の姿を示したと同時に、また、教会の信者たちがことばと行いを通じて歴史の中で犯した過ちについて、ゆるしを願いました。このようにして、ヨハネ・パウロ二世は、わたしたちにわたしたちの真の姿を示しました。そして、わたしたちのあらゆる過ちと弱さにもかかわらず、東方から来た占星術の学者たちに始まる、聖人たちの歩みに加わるようにと、わたしたちを促しました。
  教会の中に毒麦があると知って、実際、わたしたちは慰められます。こうして、わたしたちのあらゆる欠点にもかかわらず、わたしたちはイエスの弟子に加えていただけることを、なおも希望することができます。イエスは、罪人を招くために来たかただからです。
  教会は、人間の家族に似ています。けれども同時に教会は、大きな神の家族でもあります。神はこの大きな家族によって、すべての大陸、文化、民族を包む、交わりと一致の場を築かれます。だから、わたしたちは、この大きな家族に属する者であることをうれしく思います。わたしたちは、全世界の兄弟や友人をもつことができることを、うれしく思います。
  ここケルンで、わたしたちは、世界中に広がり、天と地、過去と現在と未来、地上のすべての場所を含む家族に属する喜びを見いだしています。わたしたちは、このように大きな巡礼団を作って、キリストと並んで歩みます。わたしたちの歴史を照らす星とともに、歩んでいきます。(以下、ドイツ語)
  「家に入ってみると、幼子は母マリアとともにおられた。彼らはひれ伏して幼子を拝んだ」(マタイ2・11)。親愛なる友人の皆様。これは、遠い昔に起こった話ではありません。それは、今、わたしたちに起こっている出来事です。神はここに、この聖なるホスチアの中に、わたしたちの前に、わたしたちのただ中におられます。かつてと同じように、今も、神は聖なる沈黙のうちに、神秘的なしかたで隠れています。かつてと同じように、ここで、真の神のみ顔が示されます。わたしたちのために、神は一粒の麦となりました。この麦が、世の終わりまで、地に落ちて死に、実を結びます(ヨハネ12・24参照)。
  神は、かつてベツレヘムにおられたように、今、わたしたちとともにおられます。神はわたしたちをあの内的な巡礼へと招いています。この内的巡礼が、礼拝と呼ばれます。この心の礼拝を始めましょう。そして、わたしたちを導いてくださるように、神に願いましょう。アーメン。

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