教皇ベネディクト十六世の15回目の一般謁見演説 詩編127

8月31日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の15回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3水曜日の晩の祈りで用いられる、詩編127(朗読個所は詩編127・1、3-5)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見には11,000人の信者が参加しました。


1 今朗読された詩編127は、わたしたちの目の前に生き生きとした光景を示します。建築中の家。見張りに守られた町。家庭生活。夜回り。日々の仕事。生きることのささやかな秘密と大きな秘密。しかしながら、それらのすべてを超えて、決定的なのは、わたしたちとともにいてくださる主です。主は人のわざを見守っているからです。詩編冒頭の鋭いことばがこう述べている通りです。「主ご自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい」(1節)。
 実に社会は、その社会を構成するすべての人が関わることによって、堅固なものとなります。けれども、社会は神からの祝福と支えとを必要としています。その神が、しばしば社会から締め出され、ないがしろにされているのは不幸なことです。箴言は、共同体の善益を作り出すのが、何よりも神のわざであることを強調しています。そのことを、箴言は徹底的なしかたで、こう述べています。「人間を豊かにするのは神の祝福である。人間が労苦しても何も加えることはできない」(箴言10・22)。

2 この知恵に満ちた詩編は、日常生活の現実の考察から生まれたものです。この詩編は基本的に次の対比から成っています。主がともにいなければ、堅固な家を建てようとしても、安全な町を作ろうとしても、労苦して実りを得ようとしても、むなしい(詩編127・1-2参照)。これに対して、主がともにいてくだされば、人は財産と実りを得、子だくさんで静かな家庭に恵まれ、十分に守られた町に住み、常に心配したり不安でいたりしないですみます(3-5節参照)。
 詩編のテキストはまず、主が、家を建てる者、町を見守る見張りだと述べます(詩編121・1-8参照)。人は、朝、出かけていって、勤勉に働きます。それは、自分の家族を養い、社会の発展に役立つためです。人は、労苦して、顔に汗を流し(創世記3・19参照)、一日中働きます(詩編127・2参照)。

3 ところで、詩編作者はためらうことなくいいます。もし神が働く人とともにいてくださらなければ、これらすべての労苦はむなしいと。反対に、詩編作者は、神が自分の友に眠りまでも与えると述べます。ゆえに、詩編作者は、まず神の恵みが先立つことをたたえたいのです。人のわざは限界があり、移ろいやすいものです。にもかかわらず、神の恵みは、この人のわざを堅固で価値あるものとします。自らの自由を、落ち着いた信仰をもって主にささげることによって、わたしたちの仕事も、堅固なものとなり、尽きることのない実りをもたらします。それで、わたしたちの「眠り」も、祝福された、神が与えた安息となります。この「眠り」が、堅固で意味をもった活動を締めくくるからです。

4 そこからわたしたちは、この詩編が述べているもう一つの情景に目を向けます。主はたまものとして子どもたちを与えます。子どもたちは、祝福と恵みであり、いのちの継承のしるし、また、次の世へと続く救いの歴史のしるしだからです(3節参照)。とりわけ詩編作者は「若くて生んだ子ら」をたたえます。若くして子を得た父は、その子らが成長するのを見届けるだけでなく、年老いたときに彼らに助けてもらえるからです。それで、父は将来について安心していることができます。父は、鋭い、勝利をもたらす「矢」、すなわちその息子たちで武装した戦士のようになるからです。
 詩編が、当時の文化からとられた、こうしたたとえを用いたのは、多くの家庭の安全と堅固さと力とをたたえるためです。このテーマは次の詩編128でも繰り返されます。詩編128は、幸福な家庭について述べるからです。
 詩編は最後に、子らに囲まれた父の姿を述べています。この父は、町の門、すなわち公共生活の中心で、尊敬をもって迎えられます。したがって、子を産むことは、いのちと、社会の善益をもたらすたまものです。わたしたちは現代、そのことを自覚しています。わたしたちは、多くの国々が、人口の減少によって、子どもたちが体現するはずの生気と活力と未来を失うのを目にしているからです。けれども、わたしたちとともにいてくださる聖なる神は、それらすべてを超えるかたです。神はいのちと希望の源だからです。

5 まさにこの、神がわたしたちとともにいてくださることをたたえるために、詩編127はしばしば、霊的著作家たちに用いられてきました。神がわたしたちとともにいてくださることが、いつくしみと神の国への道を歩むうえで、決定的に重要だからです。そこで、修道士イザヤ(491年にガザで没)は、その『アスケティコン』(講話4・118)のなかで、古代の父祖や預言者の模範を思い起こしながら、こう教えています。「この人々は、自分を神の保護に委ねた。彼らは神が支えてくださるよう祈り求め、自分たちが行ういかなるわざにも頼ることをしなかった。彼らにとって、神が守ってくださることは、固く守られた町のようであった。なぜなら彼らは、神の助けがなければ自分たちが何もできないことを知っていたからである。そこで彼らの謙遜は、詩編作者とともに彼らにこういわせたのであった。『主ご自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主ご自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい』」(『修徳的著作集』:Recueil ascètique, Abbaye de Bellefontaine, 1976, pp. 74-75)。

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