教皇ベネディクト十六世の16回目の一般謁見演説 コロサイ1

9月7日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の16回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3水曜日の晩の祈りで新約の歌として用いられる、コロサイの信徒への手紙の賛歌(朗読個所はコロサイ1・1、3、12、15、17-18)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見には20,000人の信者が参加しました。


1 すでにわたしたちは、宇宙と歴史の主としての、キリストの崇高な姿について考察しました。このようなキリストの姿が、聖パウロのコロサイの信徒への手紙の冒頭に置かれた賛歌でも、その主題をなしています。この賛歌は、4週間の晩の祈りのどの週においても唱えられます。
 この賛歌の中心は、15-20節から成る部分です。この部分で、キリストは、直接かつ荘厳なしかたで登場します。キリストは「見えない神」の「姿」として述べられています(15節)。ギリシア語の「エイコーン(姿)」は、使徒パウロがよく用いることばです。パウロはその手紙の中でこのことばを9回用いています。「エイコーン」は、キリストを指して用いられることもあります。キリストは神の完全な似姿だからです(二コリント4・4参照)。また、人間(男)を指して用いられることもあります。人間は神の姿と栄光を映すものだからです(一コリント11・7参照)。しかしながら、人間は、罪によって、「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間に似せた像と取り替えたのです」(ローマ1・23)。人間は、偶像を拝むことを選び、偶像に似たものとなったからです。
 それゆえわたしたちは、自分たちの姿を、常に神の子の姿に似せて造り変えていかなければなりません(二コリント3・18参照)。なぜなら、わたしたちは「闇の力から救い出」され、「愛する御子の支配下に移して」いただいたからです(コロサイ1・13)。

2 次に、キリストは「すべてのものが造られる前に生まれた方」(15節)だと宣言されます。キリストはすべての被造物より先におられ(17節参照)、世々に先立って生まれました。だから、「万物は御子によって、御子のために造られた」のです(16節)。古代ユダヤ教の伝承でも、「全世界はメシア(救い主)によって造られた」と述べられています(ミシュナ・サンヘドリン98b)。
 使徒パウロにとって、キリストは、万物を結びつけるための原理であり(「すべてのものは御子によって支えられています」)、仲介者であり(「御子によって」)、全被造物が一つに集められる最終目標です。キリストは「多くの兄弟の中で長子となられ」た方です(ローマ8・29)。すなわち、キリストは、神の子から成る大家族における、最高の意味での子なのです。わたしたちは、洗礼によってこの大家族の中に導き入れられます。

3 そこから、わたしたちは、被造物の世界から歴史の世界へと目を移します。キリストは「そのからだである教会の頭です」(コロサイ1・18)。しかもキリストは、その受肉を通して、すでに教会のかしらとなっておられました。実にキリストが人類という共同体に入ってこられたのは、人類を統治し、一つの「からだ」に作り上げるためでした。すなわち、人類を、調和があり、実りをもたらす一致へと導くためでした。人類が一致し成長するための基盤は、キリストにあります。キリストは、生けるかなめ、「初めの者(アルケー)」だからです。
 キリストは、まさにこのような第一の者であるがゆえに、すべての人の復活の根拠となることができるのです。キリストは「死者の中から最初に生まれた方」です。なぜなら、「キリストによってすべての人が生かされることになるのです。・・・・最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している者たち」(一コリント15・22-23)。

4 賛歌は、締めくくりに、「満ちあふれるもの」(ギリシア語で「プレーローマ」)をたたえます。この「満ちあふれるもの」を、キリストはご自身のうちに、御父の愛のたまものとして宿しています。この満ちあふれる神性は、世界の中でも、人類の中でも輝きます。そしてそれは、平和と一致と完全な調和を築く源泉となるのです(コロサイ1・19-20)。
 このような「和解させ」、「平和を打ち立て」るわざを可能にするのは、「十字架の血」です。わたしたちは、この十字架の血によって、正しく、聖なる者とされるからです。キリストは、ご自身の血を流し、ご自身をささげることによって、あまねく平和をもたらしました。聖書の用語では、この平和は、救い主が与えるたまものを一言でまとめたものであり、全被造物へと広がる満ち満ちた救いにほかなりません。
 それゆえ賛歌は終わりに、和解と一致、調和と平和への輝かしい希望を語ります。この平和を打ち立てるために、キリストは荘厳な姿で立ち上がります。キリストは御父の「愛する御子」だからです。

5 古代キリスト教の伝統の中で、著作家たちはこの意味深い賛歌を考察してきました。アレキサンドリアの聖チリロはある無名の質問者との問答の中で、このコロサイの信徒への手紙の賛歌を引用しています。質問者はチリロにこう問いかけます。「では、父なる神からの言(ロゴス)自身がわれわれのために肉において苦しんだと、われわれはいったらよいのか」。
 チリロは、コロサイの信徒への手紙の賛歌を引用しながら、「その通りである」と答えます。実際、チリロはこう述べています。「見えない神の像、見えるものと見えないもの、すべてのものが造られる前に生まれた方、万物が彼を通して、彼のために造られた方が、教会の頭として与えられ、彼が死者の中から最初に生まれた者であると、〔パウロは〕いう」。すなわち、キリストは、死んで復活する者の中で、最初に復活した方だからです。チリロは続けて述べます。「彼は、自分の肉から来るものをすべて自分のものとし、『恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍んだ』(ヘブライ12・2)のである。実に、〔主との〕結合によって名誉を与えられた――どのようにしてかはわたしにはわからないが――単なる人間がわれわれのためにささげられたとわれわれはいわない。十字架につけられた者は栄光の主自身である」(『キリストはひとりであること』:Collana di Testi Patristici, XXXVII, Roma, 1983, p. 101〔邦訳、小高毅訳、『中世思想原典集成3 後期ギリシア教父・ビザンティン思想』平凡社、1994年、207-208頁〕)。 
 主の栄光は、御父の最高の愛のしるしです。この主の栄光を前にして、わたしたちも讃美の歌をささげ、ひれふして主を拝み、主に感謝をささげようではありませんか。

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