教皇ベネディクト十六世の17回目の一般謁見演説 詩編132(前半)

9月14日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の17回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3木曜日の晩の祈りで用いられる、詩編132(朗読個所は詩編132・1-3、5、8-9)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見には20,000人の信者が参加しました。


1 今日、朗読されたのは、詩編132の前半部分です。この賛歌は、夕の祈りの中で、2つに分けて用いられます。多くの学者は、この歌が、主の箱(契約の櫃)をエルサレムに運ぶ、荘厳な典礼の中で唱えられたものだと考えています。主の箱は、イスラエルの民のただ中に神がおられることのしるしです。エルサレムは、ダビデが選んだ新しい都でした。
 この出来事について、聖書はこう述べています。「主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフェドを着けていた。ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた」(サムエル記下6・14-15)。
 一方、別の学者たちは、詩編132を、シオンの聖所での典礼が確立した後に行われた、この古代の出来事を記念する祭儀と関係づけます。もちろん、このシオンの聖所を建てたのは、ダビデです。

2 今日の賛歌は、典礼の要素を含んでいるように思われます。おそらくこの賛歌は、行列を行う中で用いられたものでした。行列の中には、祭司と信者がおり、聖歌隊も参加しました。
 夕の祈りに従って、今日の解説は、今朗読された、前半の10節までにしたいと思います。この部分の中心をなしているのは、ダビデが行う荘厳な誓いです。実際、ダビデは、自分の前任者であるサウル王との苦しい戦いの後、「主に誓い、ヤコブの勇者である神に願をかけました」(詩編132・2)。3-5節に示される、この荘厳な誓いの内容は、はっきりしています。それは、まず主の箱がいますところを定めるまでは、王はエルサレムの王宮に入らず、静かに休むこともしない、というものでした。
 それゆえ、社会生活の中心には、すべてを超える神の神秘を思い起こさせるための場がなければなりません。神と人間は、ともに歴史の中を歩みます。神殿は、この神と人間の交わりを目に見える形で示す役割を担います。

3 ダビデの言葉を述べた後、ここで過去の出来事が思い起こされます。おそらくこれは、典礼の聖歌の言葉に基づくものと思われます。主の箱は、エフラタの地であるヤアルの野で見いだされました(6節参照)。イスラエルは戦いの最中に主の箱を失いました。ペリシテ人がそれをイスラエルに返した後、主の箱は長くヤアルの野にとどまっていたのです(サムエル記上7・1、サムエル記下6・2、11参照)。そのため、主の箱は、エフラタ地方から将来の聖なる都へと移されます。今日の部分の最後では、そのことを祝う祭儀が行われます。祭儀の中には、まず、礼拝する民、すなわち会衆がいます(詩編132・7、9。参照)。また、この祭儀の中で、主は、シオンに置かれた主の箱のしるしとともに、その力ある姿を示します(8節参照)。
 典礼の精神をなすのは、まず、このような司祭と信者の交わりであり、また、力ある主なのです。

4 詩編132の前半は、王位継承者であるダビデをたたえる歓呼の祈りでしめくくられます。「ダビデはあなたの僕(しもべ)。あなたが油注がれたこの人を決してお見捨てになりませんように」(10節)。
 この祈りは、元々、ユダヤの王を生涯の危難の中で支えてくださるようにという祈願です。しかし、その中に、メシア(救い主)への待望を容易に読み取ることができます。実際、「油注がれた」という言葉は、ヘブライ語の「メシア」の訳です。こうして詩編作者のまなざしは、ユダ王国のもう一つの出来事へと向けられます。すなわち、それは、完全な意味での「油を注がれた者」への大きな期待となるのです。このメシアこそ、常に神の心に適い、神から愛され、祝福される者だからです。

5 この詩編の中にメシアへの待望を読み取ることは、キリスト教の聖書解釈でよく行われています。また、このような解釈は詩編全体にまで拡大して行われました。
 たとえば、エルサレムのヘシュキオス(5世紀前半の司祭)が、8節をキリストの受肉にあてはめた解釈は重要です。『神の母についての第2の講話』の中で、ヘシュキオスは、おとめにこう呼びかけています。「ダビデは、あなたと、あなたから生まれたかたについて、竪琴をかなでて歌い続けました。『主よ、立ち上がり、あなたの憩いの地にお進みください。あなたご自身も、そして御力を示す神の箱も』(詩編132・8)」。「御力を示す神の箱」とは誰でしょうか。ヘシュキオスは答えます。「それが神の母なるおとめであることは明らかです。なぜなら、あなたが真珠であるなら、おとめが箱であるのはふさわしいことです。あなたが太陽であるなら、おとめは天と呼ばれなければなりません。あなたが汚れのない花であるなら、おとめは枯れることのない草であり、不死の楽園であるはずです」(『第一千年期のマリア論文書集』:Testi mariani del primo millennio, I, Roma, 1988, pp. 532-533)。

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