教皇ベネディクト十六世の18回目の一般謁見演説 詩編132(後半)

9月21日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の18回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3木曜日の晩の祈りで用いられる、詩編132(朗読個所は詩編132・11、 […]

9月21日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の18回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3木曜日の晩の祈りで用いられる、詩編132(朗読個所は詩編132・11、13-14、17-18)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見には26,000人の信者が参加しました。
この日の謁見には、ヨーロッパ・サッカー連盟(UEFA)とイタリア・サッカー協会(FIGC)の関係者と、16か国の少年少女500名が参加しました。一般謁見の前に、これらの少年少女たちは、サンピエトロ広場に設けられた、10面の小さなサッカー場でミニ・サッカーを行いました。謁見に参加した少年少女は、「カルチョ・ケアーズ」(カルチョはイタリア語でサッカーの意味)というイベントの参加者です。この企画は、イタリア・サッカー協会が教皇庁開発援助推進評議会と協力し、東欧の16か国への援助事業として開催したものです。演説の後行われたイタリア語の祝福の挨拶の中で、教皇は次のように述べました。「親愛なる友人の皆様。皆様がおいでくださったことによって、わたしはスポーツの重要性に光を当てる機会を与えられました。スポーツという教科は、規則を守って行えば、教育の手段となり、また、大切な人間的・精神的な価値観を実現するための道具となります。今日の出来事が、相互の信頼、忠実な行動、諸民族・諸文化間の連帯によって特徴づけられた社会の建設のために、スポーツを役立てようとする皆様一人ひとりの努力をいっそう活気づけるものとなりますように」。


 

1 今読まれたのは、詩編132の後半です。この歌は、イスラエルの歴史における重要な出来事を思い起こさせます。すなわち、契約の櫃をエルサレムの町に運んだ出来事です。
 契約の櫃を運んだのが、ダビデであることは、この詩編の前半で述べられています。わたしたちがすでに考察した通りです。ダビデ王は、神の箱のために適当な場所を見いだすまで、自分は王宮に入らないという誓いを立てました。神の箱は、主がその民の中に現存するしるしだからです(3-5節参照)。
 今や、神ご自身が、ダビデ王の立てた誓いに答えます。「主はダビデに誓われました。それはまこと。思い返されることはありません」(11節)。この荘厳な誓いは、預言者ナタンが、神の名において、ダビデの将来の子孫に関してかつて行った預言と、実質的に同じものです。ダビデの子孫は、王国を揺るぎなく治めるよう定められました(サムエル記下7・8-16参照)。

2 神の誓いは人間の参加を含んでいます。すなわちそれは「もし・・・・なら」という仮定で条件づけられているからです。「あなたの子らがわたしの契約とわたしが教える定めを守るなら」(詩編132・12)。神の約束とたまものに対して、人間の側から、信者の応答と、積極的な忠実さが求められます。神の約束とたまものは、魔法のように与えられるものではないからです。そこでは、神の自由と人間の自由という、2つの自由が織り成す対話が行われるのです。
 そこから、詩編は、主が与えるたまものと、イスラエルの忠実とがもたらす、信じられないほどの結果をたたえる賛歌となります。民は、神がともにいてくださることを体験しました(13-14節参照)。神は、エルサレムの住民の一人のようになったのです。あたかも神は、一市民のように、他の市民とともに歴史の出来事を経験します。しかも神は、力強い祝福を与えます。
 
3 神は、収穫を祝福して、貧しい者に飽きるほどの糧を与えます(15節参照)。祭司らには、身を守る衣をまとわせて、救いを与えます。神はまた、すべての信じる者が平和と喜びのうちに生きることができるようにします(16節参照)。
 神の最高の祝福は、あらためてダビデとその子孫に与えられます。「ダビデのために一つの角(つの)をそこに芽生えさせる。わたしが油を注いだ者のために一つの灯(ともしび)を備える。彼の敵には、恥を衣としてまとわせる。王冠はダビデの上に花開くであろう」(17-18節)。
 詩編の前半と同じく(10節参照)、もう一度、「油注がれた者」が登場します。「油注がれた者」は、ヘブライ語の「メシア」です。このことばによって、ダビデの一族はメシアと結びつけられます。キリスト教の解釈では、メシアはキリストの姿のうちに実現します。ここではメシアの姿が生き生きと描き出されています。詩編は、ダビデを、力強く成長する芽だと述べます。神は、ダビデの一族を明るい灯で照らします。灯は力と栄光のしるしです。輝く王冠は、ダビデが敵に打ち勝つことを示します。それは、悪に対する勝利にほかなりません。

4 エルサレムは、箱を守る神殿と、ダビデの王朝によって、主の現存を、場所的な意味と、歴史的な意味の、2つの意味で実現しました。こうして詩編132は、インマヌエルである神への賛美となります。神は、ご自身の造られたものとともに住み、彼らとともに生きて、彼らに恵みを与えます。それは、彼らが真理と正義のうちに神と結ばれているからです。それゆえ、この詩編は、その霊的な核心において、ヨハネに先駆けてこう告げ知らせます。「ことばは肉になって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1・14)。

5 終わりに、わたしたちは、教父たちがしばしば、詩編132の後半の最初の部分を、聖なるおとめマリアの胎内にみことばが受肉したことを述べるために用いたことを思い起こしたいと思います。
 聖イレネオ(エイレナイオス)以来、おとめが男の子を産むというイザヤの預言に言及しながら、こう述べられてきました。「それゆえ、『ダビデの家よ聞け』(イザヤ7・13)ということばは、神がダビデに『胎の実』から出ると約束した、かの永遠の王を示している。『胎の実』とは、身ごもったおとめを表すことばだからである。それゆえ聖書は・・・・預言された『来るべきかた』がおとめから生まれることを述べ、また証言している。だからこそエリサベトは、聖霊に満たされて、マリアにこうあかしして言ったのである。『あなたは女の中で祝福されたかたです。胎内のお子さまも祝福されています』(ルカ1・42)。こうして聖霊は、聞く耳を持つ人に、こう示したのである。すなわち、おとめが、いいかえれば、マリアが男の子を産むことによって、ダビデの胎の実から王を生み出すという、ダビデに対する神の約束が実現したということを」(『異端反駁』3・21・5:Già e Non Ancora, CCCXX, Milano, 1997, p. 285)。
 このようにして、わたしたちは、古代の詩編から主の受肉に至るまでの、長い時間を通して示された、神の真実と忠実さを知ります。詩編の中で、わたしたちの間に住むという神の神秘が示されました。この神秘は、受肉を通して、神がわたしたちの一人となることによって、輝き出ました。歴史が移り変わる中で示される、神の忠実さと、わたしたちの信頼は、わたしたちの喜びの源となるのです。

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