教皇ベネディクト十六世の19回目の一般謁見演説 詩編135(前半)

9月28日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の19回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3金曜日の晩の祈りで用いられる、詩編135の前半(朗読個所は詩編135・ […]

9月28日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の19回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3金曜日の晩の祈りで用いられる、詩編135の前半(朗読個所は詩編135・1-2、5-6、9、12)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見には30,000人の信者が参加しました。
演説の後、英語で行われた祝福の挨拶の中で、教皇は、ローマを訪れていたイスラエルとパレスチナの人々に次のように祝福を与えました。「特にわたしは『平和のための教育セミナー』に参加するためにローマにいらしている、イスラエルとパレスチナの人々にご挨拶申し上げます。皆様の上に、神が豊かな平和と喜びの祝福を与えてくださるように、祈ります」。
また、最後にイタリア語で行われた祝福の中で、教皇は、イタリア北部のベッルーノ・フェルトレ教区からの巡礼者に対して祝福を与えました。「ベッルーノ・フェルトレ教区からの巡礼者の皆様にご挨拶申し上げます。皆様は、ジュゼッペ・アンドリッチ司教とともに、わたしの敬愛すべき先任者である、神のしもべ、ヨハネ・パウロ一世の命日にあたり、感謝と記念の祈りをささげるために、ローマにおいてくださいました」。教皇ヨハネ・パウロ一世(アルビノ・ルチアーニ)は、1912年10月17日にベッルーノ・フェルトレ教区のフォルノ・ディ・カナーレで生まれました。1935年に司祭叙階、1958年に司教叙階を受け、1969年ヴェネツィア総大司教に任命され、1973年に枢機卿に親任されました。1978年8月26日に第263代教皇として選出されましたが、33日後の9月28日に逝去しました。2003年11月23日に列福手続きが開始しました。教皇ベネディクト十六世は、枢機卿時代の2004年に、ベッルーノで、ヨハネ・パウロ一世の列福のために毎日祈っていることを明らかにしています。
また、この日の謁見には、今年6月22日に着任した、日本への教皇大使のアルベルト・ボッターリ・デ・カステッロ大司教も参加しました。一般謁見の後、ボッターリ・デ・カステッロ大司教は教皇と親しくことばを交わしました。
教皇ベネディクト十六世は、7月28日から続いた、カステル・ガンドルフォ教皇公邸での夏季滞在を終えて、この日の朝、バチカンの公邸に戻りました。


 

1 今日読まれたのは、詩編135の前半です。これは典礼の性格をもった賛歌です。そこでは、他の聖書のテキストが暗示されたり、思い起こされたり、引用されたりしています。実際、典礼の式文は、多くの場合、聖書の偉大な遺産に基づいて構成されています。聖書はさまざまなテーマと祈りを含んでおり、信者の歩みを支えてくれるからです。
 わたしたちは前半の祈りを読みたいと思います(詩編135・1-12参照)。それは、主を賛美するようにという、すべての民への強い招きです(1-3節参照)。この呼びかけを受けるのは次の人々です。「主のしもべらよ、主の家に、私たちの神の家の庭に居並ぶ人々よ」(1-2節)。
 それゆえ、わたしたちは、神殿で行われる、生き生きとした礼拝の雰囲気の中に置かれます。神殿は、共同で祈りをささげるための最高の場所だからです。わたしたちは神殿で、「わたしたちの神」がともにいてくださることを、はっきりとしたかたちで経験します。「わたしたちの神」は、「恵み深」く、「喜ばしい」神です。それは選ばれた民の神、契約を結ばれた神だからです(3-4節参照)。
 賛美への招きに続いて、一人の先唱者が信仰宣言を唱えます。この宣言は、「わたしは確かに知った」(5節)という言い方で始まります。この信仰宣言は、賛歌全体の中核をなすものです。賛歌は、主が大いなる方であることを宣言します(同)。主の偉大さは、その驚くべきわざによって示されました。
 
2 神はその全能の力を、全世界に示し続けます。「天において、地において、海とすべての深淵において」。神は雨雲を湧き上がらせ、稲妻を放ち、風を送り出します。風は「倉」すなわち風をためておくところにしまってあると考えられていました(6-7節参照)。
 しかし、何よりもこの信仰宣言の中でたたえられるのは、神のわざのもう一つのあり方です。すなわち、神が驚くべきしかたで歴史に介入するということです。この歴史の中で、造り主は、自分の民のあがない主としての、また、世界の王としての、み顔を示します。イスラエルの民は、祈りの中で、出エジプトの偉大な出来事を、目のあたりに見ているかのように思い起こします。
 まず最初に、エジプトを襲った「疫病」が、まとめて簡潔に思い起こされます。この疫病は、イスラエルの民を抑圧する王を屈服させるために、主が罰として与えたものでした(8-9節参照)。次に、荒れ野での長い旅の後、イスラエルに与えられた、数々の勝利が思い起こされます。このような勝利を得ることができたのは、神の力強い介入のおかげでした。「主は多くの国を撃ち、強大な王らを倒された」(10節)。最後に述べられるのは、イスラエルが長く待ち望みながらめざしてきた、約束の地です。「(主は)彼らの領地を嗣業として、嗣業としてご自分の民イスラエルに与えられた」(12節)。
 神の愛は、具体的なかたちで示されます。それは、つらいときにも、喜びのときにも、歴史の中で、経験することができるとさえ言えます。典礼の役割は、この神の与えたたまものを、常に生き生きと現前させることです。それは何よりもまず、偉大な過越の祭儀を祝うことを通じて行われます。過越の祭儀は、他のすべての祝日の根源であり、解放と救いを示す最高のしるしだからです。

3 わたしたちも、この詩編の心、その神への賛美の心をもちましょう。ローマの聖クレメンスは、『コリントのキリスト者への手紙』の長い結びの祈りの中で、このような心をあらためて言い表しています。クレメンスはこう述べています。詩編135の中で、あがない主である神のみ顔が示されているように、いにしえの父祖に与えられた神の守護は、いまやキリストによってわたしたちに与えられていると。「主よ、平和の恵みのために、あなたのみ顔をわたしたちの上に輝かせてください。わたしたちが、あなたの力強いみ手によって守られ、またあなたの高く挙げられた腕によって、あらゆる罪から救われるためです。いわれなくわたしたちを憎む者たちからわたしたちを助けてください。わたしたち、また地に住むすべてのものに、心の一致と平和を与えてください。かつてわたしたちの父祖たちが、聖性と信仰と真実とをもってあなたに呼びかけたとき、彼らにお与えになったのと同じように。・・・・これらのこと、あるいはさらに優れたたまものをわたしたちに与えることができるのは、あなたおひとりです。そのあなたに、わたしたちは、大祭司であり、わたしたちの魂の守り手であるイエス・キリストを通して感謝をささげます。キリストを通して、栄光が、世々とこしえにあなたにありますように。アーメン」(『クレメンスの手紙―コリントのキリスト者へ(一)』60・3-4、61・3:Collana di Testi Patristici, V, Roma, 1984, pp. 90-91〔邦訳、小河陽訳、荒井献編『使徒教父文書』講談社、1974年所収、参照〕)。

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