教皇ベネディクト十六世の20回目の一般謁見演説 詩編135(後半)

10月5日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の20回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3金曜日の晩の祈りで用いられる、詩編135の後半(朗読個所は詩編1 […]

10月5日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の20回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3金曜日の晩の祈りで用いられる、詩編135の後半(朗読個所は詩編135・13-15、18-20)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見には50,000人の信者が参加しました。
演説の後、ポーランド語で行われた祝福の挨拶の中で、教皇は、ポーランドからの巡礼者に対して次のように述べました。「ポーランドからの巡礼者の皆様に心からご挨拶申し上げます。わたしの敬愛すべき前任者である教皇ヨハネ・パウロ二世が逝去してから、6か月が経ちました。教皇ヨハネ・パウロ二世の教えと、その生涯によるあかしのすべては、わたしたちにとって、今もその重要さと現代的な意味を持ち続けています。わたしは、教皇ヨハネ・パウロ二世の列福を、皆様が唱えるロザリオに委ねます。イエス・キリストはほめたたえられますように」。


1 詩編135は、過越をたたえる歌です。この詩編は、晩の祈りの中で、2つに分けて唱えられます。今読まれた、詩編の後半(13-21節参照)は、「ハレルヤ」ということばでしめくくられています。それは、この詩編の初めにも見られる、主をたたえる歓呼のことばです。
 この賛歌は、前半で出エジプトの出来事を記念しました。出エジプトの出来事は、イスラエルの過越祭の中心をなすものです。その後、ここで詩編作者は、2つのまったく異なった宗教の姿を対比させます。一方では、顔を持った、生ける神の姿が示されます。この神が、真の意味での信仰の中心となります(13-14節参照)。神は民とともにいて、力を表し、救いのわざを行います。主は、動くことも、ともにいてくれることもないものではなく、顔を持って生きています。主は、信じる者の「裁きを行い」、彼らを「力づけられる」からです。主はその力と愛をもって、信じる者を支えてくださいます。

2 その一方で、偶像崇拝が行われます(15-18節参照)。偶像崇拝は、道をはずれた、偽りの宗教心の表れです。実際、偶像は「人間の手が造ったもの」にすぎません。それは人間の欲望が生み出したものです。したがって、偶像は、被造物の範囲を超えることがありません。偶像には、人間の姿と同じ、口も、目も、耳も、鼻もあります。しかし、それは、動くことも、生きることもありません。まさしく、それが生命のない偶像だからです(詩編115・4-8参照)。
 このような死んだ偶像を拝む人は、結局、偶像と同じようになります。すなわち、彼らは、動かず、脆弱(ぜいじゃく)で、活気を欠いたものとなるのです。ここには、「人間の手が造ったもの」に救いを求めようとする、人間の永遠の誘惑がはっきりと示されています。人間は、富や、権力や、成功や、物質に希望を置こうとするからです。残念ながら、このような人の行く末は、預言者イザヤがはっきりとこう述べた通りです。「彼は灰を食らい、惑わされた心は、その道を誤らせる。彼は自分の魂を救うことができず、『わたしの右の手にあるのは偽りではないか』とすらいわない」(イザヤ44・20)。

3 このように、詩編135は、真の宗教と偽りの宗教について考察します。真の宗教とは、世界と歴史の主であるかたに対する、真の意味での信仰です。偽りの宗教は、偶像崇拝です。この考察の後、典礼で用いられる祝福が述べられます(19-21節参照)。この祝福の中で、シオンの神殿でささげられる礼拝に参加した人々の姿が示されています(詩編115・9-13参照)。
 神殿に集まった全会衆は、声を合わせて、全世界の造り主であり、神の民の救い主である神をたたえます。この賛美は、さまざまなことばで、また、謙遜な信仰をもって表されます。
 典礼は、神のことばに耳を傾けるための最高の場です。神のことばは、主の救いのわざを現前させるからです。しかし、典礼はまた、神の愛をたたえるために、共同体がともに祈りをささげる場でもあります。神と人間が、出会い、抱き合うことによって、救いがもたらされます。このような救いは、まさに典礼の祭儀において実現するのです。

4 アウスグチヌスは、偶像と、偶像に依り頼んでそれに似たものとなる人々について述べた、詩編のこの箇所(詩編135・15-18参照)を注解して、次のように考察しています。「兄弟の皆さん、信じてください。実に、彼らはある意味で、彼らが拝む偶像と似ています。彼らが偶像と似ているというのは、もちろん身体としてはなく、内なる人としてです。彼らには耳があります。けれども、どれだけ神が彼らに向かって叫んでも、彼らには聞こえません。『聞く耳のある者は聞きなさい』。彼らには目があっても、見えません。彼らには、からだの目はあっても、信仰の目がないのです」。同じように、「彼らには鼻があっても、かぐことができません。彼らは使徒パウロがいっている、あの香りをかぐことができないのです。パウロは、どのようなところでも、キリストの良い香りとなるようにいっています(二コリント2・15参照)。キリストの甘美な香りをかぐことができないなら、そのような鼻があっても、彼らには何の役に立つでしょうか」。
 アウグスチヌスは、偶像にとらわれている人が、いまだに、実際にいることを認めています。「しかしながら、主キリストが行う奇跡を信じる人は、毎日、信仰を抱いています。毎日、見えない目と、耳の聞こえない人の耳は開き、ふさがれていた鼻は息をするようになり、口のきけない人の舌は解け、足の不自由な人の足はしっかりと立ち、曲がった足はまっすぐにされています。神はこんな石からもアブラハムの子たちを造り出すことがおできになるのです(マタイ3・9参照)。それゆえ、これらすべてのことについて、わたしたちはこういわなければなりません。『イスラエルの家よ、主をたたえよ』。すべての民よ、主をたたえよ。これが、『イスラエルの家よ』ということばの意味です。教会の祭司たちよ、主をたたえよ。これが『アロンの家よ』ということばの意味です。奉仕者たちよ、主をたたえよ。これが『レビの家よ』ということばの意味です。他の諸国の民については何といえばよいでしょうか。『主を畏れる人よ、主をたたえよ』」(『詩編注解』134・24-25:Nuova Biblioteca Agostiniana, XXVIII, Roma, 1977, pp. 375, 377)。

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