教皇ベネディクト十六世の21回目の一般謁見演説 詩編122

10月12日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の21回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4主日の前晩の祈りで用いられる、詩編122(朗読個所は詩編122・1-3、5、8-9)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見には50,000人の信者が参加しました。


1 今、祈りとして唱えられた賛歌は、「都に上る歌」の中で、もっとも美しく、感動的なものの一つです。この詩編122では、すべての人が生き生きと、エルサレムで行われる祭儀に参加します。この聖なる都エルサレムに、巡礼者は上ります。
 詩編はただちに冒頭から、信者が経験した二つのことを、同時に述べています。一つは、「主の家に行こう」(1節)という招きを受けた日のことです。もう一つは、エルサレムの「城門」(2節参照)に着いた喜びです。信者はついに、聖なる愛すべき地に足を踏み入れます。まさにそのとき、信者の口が開き、シオンをたたえて、喜びの歌を歌い始めます。その歌は、シオンを深く霊的な意味でとらえています。

2 「都として建てられた町。そこに、すべては結び合い」(3節)。エルサレムは、安全と堅固さを象徴する町であり、イスラエルの十二部族の統合の中心です。十二部族は、彼らの信仰と礼拝の中心であるこの町に集まります。彼らはエルサレムに上って、「主のみ名に感謝をささげる」(4節)のです。エルサレムは、「イスラエルの律法」(申命記12・13-14、16・16)によって、唯一、正式で完全な聖所と定められた場所だからです。
 エルサレムには、もう一つ重要な意味があります。それは、神がイスラエルとともにおられることの、しるしともなるものです。すなわち、「ダビデの家の王座」(詩編122・5参照)です。ダビデ王朝の支配は、歴史の中で働く神のわざを表します。神のわざは、イスラエルをメシアへと導きます(サムエル記下7・8-16)。

3 「ダビデの家の王座」は、同時に「裁きの王座」とも呼ばれます(詩編122・5参照)。王は、最高の裁判官でもあるからです。それで、エルサレムは、政治的な都であるだけでなく、最高裁判所でもあったのです。さまざまな訴訟の最終的な審理は、エルサレムで行われました。こうして、ユダヤ人の巡礼者たちは、シオンを離れて、公正と平和を回復したそれぞれの村に帰っていったのです。
 このように、詩編は、宗教的機能と社会的機能の両面から、この聖なる都の理想的な姿について述べます。こうして、聖書の宗教は、抽象的あるいは私的なものではなく、正義と連帯感にあふれたものであることが明らかにされます。神との交わりは、かならず兄弟どうしの交わりを伴うのです。

4 最後に行われる、祈願の祈りを読みたいと思います(6-9節参照)。この祈りは、ヘブライ語の「シャローム(平和)」ということばで韻を踏んでいます。「シャローム」は、伝統的に、この聖なる都の名前の元になっていると考えられています。「エルシャライム」は、「平和の都」の意味に解釈されるからです。
 ご存知のように、「シャローム」は、メシアがもたらす平和を暗示します。このメシアがもたらす平和は、喜び、繁栄、幸い、豊かさを含むものです。実際、巡礼者は、「神、主の家」である神殿に別れの挨拶を告げる際、平和の上に「幸い」ということばを付け加えています。「あなたに幸いがあるように」(9節)。これは、フランシスコ会で用いられる挨拶のことば、「平和と幸いがありますように」(Pace e bene!)の先取りともいえます。この挨拶は、聖なる都を愛する信者が、民のいのちを守る物理的な施設としての城壁と城郭に対して、また、すべての兄弟と友人に対して述べた、祝福の予言です。こうしてエルサレムは、和解と平和の家となります。

5 詩編122の黙想を終えるにあたり、教父が行う考察に耳を傾けたいと思います。教父たちは、古代のエルサレムを、もう一つのエルサレムを示すしるしと考えました。このもう一つのエルサレムも、「堅固な都として建てられました」。大聖グレゴリオは、『エゼキエル書講話』の中で、こう述べています。「この町は、聖人たちの行いによって建てられた、大きな建物です。この建物では、一つの石が別の石を支えています。なぜなら、一つの石は、別の石の上に置かれているからです。そして、別の石を支える石は、また別の石に支えられています。したがって、聖なる教会の中では、まさにこのようにして、それぞれの人が人を支え、また人に支えられています。彼らは互いに緊密に支え合っているため、彼らを通して、愛の家が建てられます。それで、パウロはこう勧めています。『互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです』(ガラテヤ6・2)。この律法の力を強調しながら、パウロはこういいます。『愛は律法を全うするものです』(ローマ13・10)。実際、もしわたしが、あなたをそのまま受け入れようと努めなければ、また、あなたが、わたしをそのまま受け入れようと努めなければ、わたしたちが愛の家を築くことはできません。わたしたちは、忍耐強い愛によって、互いに結ばれているからです」。このようなたとえを完成させるために、忘れてはならないことがあります。すなわち、「一つの土台が、家のすべての重みを支えています。その土台こそ、わたしたちのあがない主です。このかただけが、わたしたちの行いのすべてを、完全に耐え忍ぶことができるからです。このかたについて、使徒パウロはこう述べています。『イエス・キリストというすでに据えられている土台を無視して、誰もほかの土台を据えることはできません』(一コリント3・11)。この土台は、ほかの石を支えますが、ほかの石が、この土台を支えることはありません。つまり、あがない主は、わたしたちすべての者が犯した罪の重荷を担ってくださいます。しかし、あがない主には、ゆるされるべき罪がないのです」(『エゼキエル書講話』2・1・5:Opere di Gregorio Magno, III/2, Roma, 1993, pp. 27, 29)。

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