教皇ベネディクト十六世の22回目の一般謁見演説 詩編130

10月19日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の22回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4主日の前晩の祈りで用いられる、詩編130(朗読個所は詩編130・1-6)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見には40,000人の信者が参加しました。


1 今、唱えられた詩編は、キリスト教の伝統の中でもっとも有名で、また愛されてきた詩編の一つです。この詩編は、ラテン語版の冒頭のことばに従って、「デ・プロフンディス(深い淵の底から)」と呼ばれます。「ミゼレレ(わたしを憐れんでください)」(詩編51)とともに、この詩編は、民間信心において悔悛詩編の一つとして親しまれてきました。
 この詩編は、葬儀に用いられます。しかし、それだけでなく、このテキストは何よりもまず、神の憐れみと、罪人が主にゆるされることをたたえる賛歌です。主は義なる神ですが、常に進んで、ご自分が次のようなかたであることを示します。「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、いつくしみとまことに満ち、幾世代にも及ぶいつくしみを守り、罪と背きと過ちをゆるす」(出エジプト34・6-7)。だからこそ、この詩編は、主の降誕と主の降誕の八日間の教会の祈りと、第4主日の教会の祈り、また、神のお告げの祭日の教会の祈りで用いられるのです。

2 詩編130は、悪と罪の深い淵から叫ぶ声で始まります(1-2節参照)。祈る「わたし」は、主に呼びかけます。「主よ、あなたを呼びます」。それから詩編は、罪とゆるしのテーマを3つの段階を追って述べます。第一の段階は、神への回心です。わたしは、神を直接「あなた」と呼びます。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、ゆるしはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」(3-4節)。
 重要なことは、主への敬い、すなわち愛を伴った主を畏れる態度は、罰から生じるのではなく、ゆるしから生まれるということです。神の怒りよりも、寛大で、恐れを取り除く神の広い心が、わたしたちに聖なる畏れを引き起こします。実際、神は、情け容赦なく罪をとがめる王ではなく、いつくしみ深い父です。わたしたちは、この父を愛さなければなりません。それは、罰を恐れるがゆえにではなく、進んでわたしたちをゆるそうとする、そのいつくしみのゆえにです。

3 二番目の段階で、祈る「わたし」は、もはや主に呼びかけるのでなく、主について語ります。「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、みことばを待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして」(5-6節)。悔い改めた詩編作者の心には、いまや、神が解放のことばを告げ、罪を打ち消してくださることへの期待と希望と確信が生まれます。
 最後の第三段階になると、詩編作者のことばは、イスラエル全体にまで及びます。イスラエルの民は、しばしば罪を犯し、神の救いの恵みを与えていただく必要を感じているからです。「イスラエルよ、主を待ち望め。いつくしみは主のもとに、豊かなあがないも主のもとに。主は、イスラエルをすべての罪からあがなってくださる」(7-8節)。
 詩編作者は初め、自分一人の救いを祈り求めました。いまやこの救いは、全共同体へと広がります。詩編作者の信仰は、契約の民の信仰の歩みと重ね合わされます。主は、契約の民を、エジプトでしいたげられた苦しみからあがなうだけでなく、「すべての罪から」あがなってくださいます。
 「デ・プロフンディス」の祈りは、罪の闇の淵から、神が開く輝かしい未来へと到達します。この未来では、「憐れみとあがない」が支配します。憐れみとあがないは、神がもっている二つの偉大な特徴だからです。

4 キリスト教の伝統の中でこの詩編について行われた考察に、耳を傾けることにしましょう。わたしたちは聖アンブロジオのことばを選びたいと思います。アンブロジオは、その著作の中で、何が人に神のゆるしを祈り求めさせるのかについて、しばしば思いめぐらしています。
 「わたしたちの主は、すべての人をゆるそうと望んでおられるかたです」。アンブロジオは、『ゆるしについて』の中で、こう述べた上で、次のように付け加えます。「あなたが義とされたいなら、自分の犯した過ちを告白しなさい。謙遜に罪を告白するなら、もつれた罪は解きほぐされます。・・・・ゆるしが与えられる希望が、いかにあなたを告白へと導くかが、おわかりでしょう」(2・6・40-41:Sancti Ambrosii episcopi Mediolanensis opera, XVII, Milano-Roma, 1982, p. 253)。
 『ルカ福音書注解』の中で、このミラノの司教は、同じ招きのことばを繰り返しながら、神がゆるしに加えて与えてくださる、驚くべきたまものについて述べています。「どれだけ神がいつくしみ深く、罪を進んでゆるそうとしておられるかを考えてみなさい。神は、取り去られたものを返してくださるだけでなく、予期せぬたまものも与えてくださいます」。洗礼者ヨハネの父ザカリヤは、天使のことばを信じなかったので、口が利けなくなりました。けれども、後に神はザカリヤをゆるし、賛歌によって預言を行うたまものを与えられました。アンブロジオはこう述べています。「すこし前まで口が利けなかった人が、いまや預言しています。主を否んだ、まさにその人が、主に告白することは、主が与えるもっとも偉大な恵みの一つです。ですから、過去に犯した罪を悔やんでいても、確信を抱きなさい。神が報いてくださることについて、けっして絶望してはいけません。あなたが罪を悔い改めるなら、神はかならず思い返してくださいます」(2・33:Sancti Ambrosii episcopi Mediolanensis opera, XI, Milano-Roma, 1978, p. 175)。

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