世界代表司教会議(シノドス)第11回通常総会 最終メッセージ

世界代表司教会議第11回通常総会は、10月21日(金)午前9時10分から始まった、第20回全体会議で、「最終メッセージ」を承認し、これを22日(土)に発表しました。以下に訳出したのは、その全文です。 最終メッセージはフラ […]

世界代表司教会議第11回通常総会は、10月21日(金)午前9時10分から始まった、第20回全体会議で、「最終メッセージ」を承認し、これを22日(土)に発表しました。以下に訳出したのは、その全文です。
最終メッセージはフランス語で書かれ、英語・ドイツ語・イタリア語・スペイン語テキストが同時に発表されましたが、翻訳の底本としては英語テキストを用い、合わせて、適宜、フランス語テキストを参照しました。

 

聖体――世の平和のための生けるパン

親愛なる兄弟である司教の皆様。
親愛なる司祭と助祭の皆様。
親愛なる愛すべき兄弟姉妹の皆様。

1 「あなたがたに平和があるように」。復活の晩、エルサレムの二階の広間に現れた主の名によって、わたしたちは繰り返して申し上げます。「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20・21)。主の死と復活の神秘が、皆様を慰め、皆様の全生涯に意味を与えてくださいますように。主がいつも皆様を喜びと希望で満たしてくださいますように。キリストは、ご自身が約束されたとおり(マタイ28・20参照)、ご自分の教会の中に生きておられるからです。キリストは、世の終わりまで、いつもわたしたちとともにいてくださいます。キリストは、至聖なる聖体の秘跡によって、わたしたちにご自身を与えました。また、キリストは、彼が愛するのと同じように愛する喜びをも、わたしたちに与えてくださいました。キリストは、その死に打ち勝った愛を、全世界のわたしたちの兄弟姉妹と分かち合うように、わたしたちに命じました。愛する兄弟姉妹の皆様。これが、聖体に関する世界代表司教会議の終わりにあたって、わたしたちがあなたがたに告げる喜びのメッセージです。
 主イエス・キリストの父である神はたたえられますように。キリストは、聖体という特別なたまものについて思い起こすために、神の母にしてわたしたちの母であるマリアとともに、わたしたちを再び二階の広間に集めてくださいました。

2 亡き教皇ヨハネ・パウロ二世によって招集され、教皇ベネディクト十六世によって確認されたこの世界代表司教会議で、教会生活と宣教の源泉と頂点である聖体について、ともに祈り、考察するために、わたしたちは世界の五大陸から集まりました。世界代表司教会議の目的は、教皇が、聖体に生かされた教会生活を刷新し深めるのを助けるために、提言を行うことでした。わたしたちは、聖体が初めからいかなるものであったかを、体験することができました。聖体は、ペトロの後継者との目に見える交わりのうちに、いのちのパンによって養われた、唯一の信仰、唯一の教会にほかなりません。

3 司教、オブザーバー、またエキュメニカルな代表者たちの兄弟としての交わりを通して、わたしたちは、聖体が、東方と西方の部分教会の生活を生かし、変容させるだけでなく、わたしたちがその中で暮らすさまざまな環境で行われる、さまざまな人間の活動をも、生かし、変容させるものであることを、あらためて確信しました。わたしたちは、典礼や文化や司牧的状況は異なっても、わたしたちの聖体への信仰は唯一であることを体験して、深い喜びを感じました。多くの兄弟である司教の参加によって、わたしたちは、さまざまな典礼の伝統の豊かさを直接に経験することができました。こうした典礼の伝統の豊かさが、唯一の聖体の神秘の深みを輝かせるのです。
 親愛なるあらゆる教派のキリスト者の兄弟姉妹の皆様にお願いします。和解の日が訪れ、教会の目に見える一致を実現して、イエスが死の前の晩に行った祈りに従って、聖なる感謝の祭儀を行うことができるよう、どうかいっそう熱心に祈ってください。「父よ、あなたが私の内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(ヨハネ17・21)。

4 教皇ヨハネ・パウロ二世の教皇職と、その最後の回勅『教会にいのちを与える聖体』、そして、それに続いて公布され、聖体年を開始した『主よ、一緒にお泊まりください』を与えてくださった神に深く感謝します。そして、教皇ヨハネ・パウロ二世のあかしと教えが、いっそう豊かな実りをもたらすように、わたしたちは神に願います。また、わたしたちはすべての神の民に感謝します。わたしたちはこの三週間の祈りと考察の期間中、皆様がわたしたちとともにいて、支えてくださっているのを感じました。中国の地方教会と、会議に参加してともに議論を行うことができなかった、中国の司教たちのことは、特別にわたしたちの思いと祈りのうちにありました。
 すべての司教、司祭、助祭、全世界の宣教者、男子・女子奉献生活者、信徒の皆様、そしてまた、すべての善意の人々に申し上げます。復活したキリストの名において、聖霊の平和と喜びがありますように。

世界の苦しみに耳を傾ける

5 世界代表司教会議では、諸大陸の教会生活について、時間をかけて熱心な分かち合いとあかしが行われました。わたしたちは、戦争、飢餓、さまざまな形のテロと不正が引き起こし、何億人という人間の日常生活を脅かしている、極限状況と苦しみに心をとめました。中近東とアフリカで増大する暴力によって、わたしたちは、アフリカ大陸が世界の世論から忘れられていたことに思いを致しました。倍増しているかのように思われる自然災害は、自然をけっしてあなどることのないように、また、苦しむ人々との連帯を強めるように、わたしたちを促します。
 わたしたちは世俗化のもたらす結果に黙っていることはできませんでした。世俗化は、とりわけ西洋で進んでおり、宗教的無関心や、さまざまなかたちで表明される相対主義を生み出しています。わたしたちは、不正と極度の貧困の状況を思い、またそれを非難します。こうした状況は至るところにありますが、とりわけラテンアメリカ、アフリカ、アジアに見られます。これらすべての苦しみは、神に叫びながら、人類の良心にも訴えかけています。これらの苦しみは、わたしたちすべてに訴えかけています。地球というグローバルな村は、どうなっていくのでしょうか。荒廃の脅威にさらされている環境は、どうなっていくのでしょうか。このグローバル化の時代に、連帯が苦しみと困窮に打ち勝つために、何をしたらよいのでしょうか。わたしたちは、諸国の指導者も、すべての人に共通善がゆきわたるよう熱心に努めるべきだと考えます。わたしたちは、諸国の指導者が、受胎から自然死に至るまでの、すべての人間の尊厳を尊重するように求めます。わたしたちは、これらの指導者が、結婚と家庭に関する自然本性的権利を尊重する法を定めるよう求めます。わたしたちも、誰も日々の糧にこと欠くことのないように、すべての人間の家族が真の意味で発展するための恒久的な条件の整備に向けて、諸機関が協力して行っている活動に、積極的に参加し続けたいと思います。

6 わたしたちはこれらの苦しみと問題とを携えて、感謝の祭儀と聖体礼拝を行いました。互いに注意深く耳を傾けつつ議論を行いながら、わたしたちは、世界の多くの地域で、教会の歴史を通じて常に見られたように、今日でもなお殉教によるあかしが行われていることに、感動と衝撃を感じました。シノドス参加司教たちは、殉教者たちが、愛によって憎しみに打ち勝ち、ゆるしによって暴力に打ち勝つ力を、常に聖体のうちに見いだしてきたことに、あらためて思いを致しました。

「わたしの記念としてこのように行いなさい」

7 受難を受ける晩、「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながらいわれた。『取って食べなさい。これはわたしのからだである』。また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡していわれた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪がゆるされるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」(マタイ26・26-28)。「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22・19、一コリント11・24-25)。教会はその初めから、イエスの死と復活を記念してきました。すなわち、教会は、最後の晩餐でいわれ、行われたのと同じことばとわざを用いて、聖霊がパンとぶどう酒をキリストのからだと血に変えてくださるように願い求めてきたのです。わたしたちは、教会の変わることのない伝統において、ミサで司祭が唱えるイエスのことばが、聖霊の力によって、そのことばが表すことを実現すると、固く信じ、また教えています。司祭がミサで唱えることばは、復活したキリストの現実の現存をもたらします(『カトリック教会のカテキズム』1366)。教会は、この特別なたまものによって生かされています。このたまものが、教会を集め、清め、唯一の聖霊に生かされた、キリストの唯一のからだへと変えるからです(エフェソ5・29参照)。
 聖体は、愛のたまものです。この愛は、世が救われるためにその独り子を遣わした父の愛であり(ヨハネ3・16-17参照)、この上なくわたしたちを愛し抜いたキリストの愛であり(ヨハネ13・1参照)、聖霊によって、わたしたちの心に注がれた神の愛です(ローマ5・5参照)。この聖霊が、わたしたちの内で「アッバ、父よ」(ガラテヤ4・6)と叫ぶのです。聖なるいけにえの祭儀を行うとき、わたしたちは、世の救いを告げ、主が来られるまで、主の死が勝利を収めたことを告げ知らせます。主のからだを拝領するとき、わたしたちは、自分たちの復活の「保証」を与えられます。

8 第二バチカン公会議から40年後にあたり、わたしたちは、わたしたちの典礼共同体が、この信仰の神秘をどれほど適切に表現し、祝っているかを吟味したいと望みました。世界代表司教会議は、第二バチカン公会議が、真の意味での典礼刷新に必要な基盤を与えたことを再確認します。今必要なのは、この改革の積極的な成果を拡大し、典礼の実践に密かに入り込んだ誤用を正すことです。わたしたちは、典礼を聖なるものとして尊重する態度は、正統な権威者が定めた典礼規則を、真の意味で忠実に守ることによって伝えられることを確信します。誰も自分が教会の典礼を意のままにできると考えてはなりません。主の現存を認める生きた信仰こそが、美しく典礼祭儀を行い、この典礼を、神の栄光に「アーメン」と答えることのうちに完成させるための第一の条件となります。

聖体に生かされた教会生活におけるさまざまな明るい側面

9 世界代表司教会議の議論は、喜ばしい兄弟愛の雰囲気のうちに行われました。この雰囲気は、さまざまな問題に関する自由討論と、聖体年の成果に関する自発的な分かち合いによって、深められました。会議に出席して議論に耳を傾け、また発言してくださった教皇ベネディクト十六世が、わたしたち全員の模範となり、また貴重な支えとなりました。多くの発表は、積極的で喜ばしい出来事を報告しました。たとえば、以下のようなものです。日曜日のミサの重要性をあらためて意識するようになったこと。世界のさまざまな地域で司祭職や奉献生活への召命の数が増えたこと。ドイツのケルンで頂点に達した、世界青年の日(ワールド・ユース・デー)の力強い体験。世界のほとんどすべてのところで行われた、聖体礼拝に関する多くの行事の展開。『カトリック教会のカテキズム』に照らして行われた、洗礼と聖体についての信仰教育の刷新。新しい福音宣教を行う宣教者を養成するための、運動団体や共同体の成長。新たな召命への希望をもたらす、若い侍者(祭壇奉仕者)の増加。その他、感謝せずにいられない多くの出来事があります。
 最後に、シノドス参加司教たちは、聖体年が、グローバル化した人類に向けて、聖体から出発して行う福音宣教の始まり、また出発点となりうることを希望します。

10 わたしたちは「聖体への驚き」(『教会にいのちを与える聖体』6)が、常に信者を、よりいっそう力強い信仰生活へと導くことを望みます。そのために、東方典礼カトリック教会の伝統では、聖体礼儀を行い、イエスの祈りと聖体拝領前の断食を重んじています。一方、ラテン典礼の伝統では、感謝の祭儀で頂点に達する「聖体の霊性」を深めてきました。ミサ以外の場での聖体礼拝、聖体賛美式、聖体行列、また民間信心のさまざまな適切な形態も行われています。こうした霊性が、毎日の生活を支え、わたしたちのあかしを強める上できわめて豊かな源泉となることは、間違いありません。

11 かつて司祭が不在であったり、地下活動をしなければならなかった多くの国で、今や教会が自由に聖なる神秘を祝うことができることを、神に感謝したいと思います。福音を宣べ伝え、新たな熱意をもって福音をあかしする自由は、深刻に非キリスト教化された地域で、少しずつ信仰を呼び覚ましつつあります。わたしたちは、迫害を受け続けているすべての人々に、心からあいさつと励ましを送りたいと思います。わたしたちはまた、キリスト信者が少数の地域で、主日を祝う完全な自由が認められることを求めます。

感謝の祭儀の刷新のための諸問題

12 わたしたちの教会生活には、無視できない、さまざまな暗い側面や問題も認められます。まずわたしたちは、罪意識の欠如と、ゆるしの秘跡の実践があいかわらず危機に瀕していることに思いを致します。ゆるしの秘跡のもつ深い意味を再発見することが大切です。ゆるしの秘跡は、罪のゆるしのために(ヨハネ20・23参照)、また、キリストと兄弟姉妹に対する愛を深めるために、復活したキリストによって与えられた、回心であり、貴重な癒しです。
 興味深いことに、適切なしかたで信仰教育を受けた多くの青年は、ますます個人としてゆるしの秘跡を受け、ふさわしいしかたで聖体拝領を受けるためにゆるしの秘跡が必要であることを意識するようになってきています。

13 にもかかわらず、日曜日に感謝の祭儀を行う司祭がいないことは、きわめて憂慮すべきことであり、司祭召命のために祈り、いっそう積極的に司祭召命を促進するようわたしたちに促しています。司祭の中には、信者の要求にできるだけ答えるために、多くの場所でミサをささげたり、次から次に移動しなければならないような、困難な状況に直面している人もいます。このような司祭は、まことに心から称賛と同情を受けるに値します。わたしたちはまた、多くの宣教者に感謝します。彼らの熱心な福音宣教によって、わたしたちは、全世界に行って主の名によって洗礼を授けなさいという主の命令に、今日もなお忠実に従うことができるのです(マタイ28・19参照)。

14 他方で、わたしたちは、司祭の不在のために、ミサを行い、主日を祝うことができなくなっていることを憂慮します。司祭が不足している諸大陸には、すでにさまざまな形の祭儀が存在しています。しかしながら、カトリック教会の伝統の中で古くから行われてきた、「霊的聖体拝領」の実践を、いっそう促進し、普及させることができますし、またそうすべきです。それは、信者が、より適切なしかたで秘跡としての聖体拝領を行うのを助け、また、さまざまな理由でキリストのからだと血を聖体拝領によって受けることができない人々に、真の意味での慰めを与えるのを助けることができるからです。わたしたちは、霊的聖体拝領の実践が、孤独な人、特に身体障害者、高齢者、服役者、難民の助けとなると考えます。

15 わたしたちは、主の掟に反する家庭的な事情のために聖体拝領ができない人々の悲しみを承知しています(マタイ19・3-9参照)。離婚して再婚した人々は、聖体拝領ができないことを悲しみつつも受け入れ、そのことを神にささげています。この制限を理解できずに、心に不満を抱きながら生きている人もいます。わたしたちはこうした人々の選択を肯定することはできませんが(『カトリック教会のカテキズム』2384参照)、彼らが教会生活から排除されたわけではないことをあらためて確認します。わたしたちは、彼らが日曜のミサにあずかり、神のことばに熱心に耳を傾けるように求めます。神のことばは、彼らの信仰と愛と回心の生活を養う糧となることができるからです。わたしたちは彼らに、わたしたちが祈りと司牧的配慮をもって彼らを支えていることを申し上げたいと思います。主のみ旨に忠実に従うことができるよう、ともに主に願おうではありませんか。

16 わたしたちはまた、ある地域で、聖なるものに対する感覚が低下していることにも注目しました。このことは、信者が積極的かつ実り豊かなしかたでミサに参加する上で影響を及ぼすだけでなく、感謝の祭儀を行うやり方と、キリスト信者が行うように招かれているあかしの質にも影響を与えるからです。わたしたちは、聖体によって、カトリックの共同体に属しているという感覚と喜びをよみがえらせるように努めたいと思います。なぜなら、ある国では、教会を離れる人の数が顕著に増加しているからです。非キリスト教化という事態から、家庭におけるキリスト教生活の養成を適切に行うことが求められています。それは、秘跡の実践を活性化し、それが信仰の内容を本来の意味で表すようになるためです。それゆえ、わたしたちは、両親、司牧者、カテキスタの皆様が、新千年期の初めにあたって、福音宣教と信仰教育のための計画を再構築してくださるよう、お願いしたいと思います。

17 歴史と来たるべき世の主であるかたのみ前で、わたしたちは、すべての時代の貧しい人と現代の貧しい人、ますます増大する不正による被害者、そしてこの世で忘れられたすべての人から、問われています。彼らの存在によって、わたしたちは、世の終わりに至るまでのキリストの苦しみを思い起こします。これらの苦しみが、聖体の神秘を祝うことと無関係なままでいることはできません。聖体の神秘は、わたしたちすべてが、正義の実現のため、また、世界の変革のために、積極的かつ意識的に働くように招いています。わたしたちは、教会の社会教説に基づいてこの活動を行います。教会の社会教説は、人間の人格の中心的な価値と尊厳を促進するからです。
 「わたしたちは自分自身を欺くことはできません。わたしたちが真にキリストに従う者であると認められるのは、互いの愛と、とりわけ困窮している人への配慮によるのです(ヨハネ3・35、マタイ25・31-46参照)。これが、わたしたちのささげる感謝の祭儀が真正なものであるかどうかを判断するための基準となります」(『主よ、一緒にお泊まりください』28)。

あなたがたはわたしの証人となる

18 「イエスは、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。聖ヨハネは、洗足の物語の中で、聖体の制定の意味を解き明かしています(ヨハネ13・1-20参照)。イエスは、へりくだって、弟子たちの足を洗います。それは、イエスの愛があらゆる限界を超えていることを表す、しるしでした。この預言的なわざは、その翌日、イエスが、十字架の死に至るまで、自らへりくだることを告げ知らせています。このへりくだりのわざによって、世の罪は除かれ、わたしたちの魂のあらゆる罪が洗い流されました。聖体は愛のたまものであり、神との出会いです。神はわたしたちを愛するかた、永遠のいのちに至る水がわき出る泉であるかただからです。司教、司祭、助祭の皆様。わたしたちはこの愛の最初の証人であり、奉仕者なのです。

19 親愛なる司祭の皆様。シノドスが行われたこの数日間、わたしたちはしばしば皆様のことを考えていました。わたしたちは皆様の寛大さと、皆様が抱える問題を知っています。皆様は、わたしたち司教との交わりのうちに、日々、神の民に牧者として奉仕するという重い務めを担っています。皆様は神のことばを告げ知らせ、信じる者を聖体の神秘へと導くよう心がけています。皆様の奉仕職は、なんという恵みでしょうか。わたしたちは皆様とともに、皆様のために祈ります。わたしたちが、ともに、主の愛に忠実に従い続けることができますように。わたしたちは、皆様が、わたしたちとともに、「主のぶどう畑で働くつつましい働き手」である教皇ベネディクト十六世の模範に倣って、司祭生活を歩み続けてくださることを願います。皆様は、罪を悔い改めた人と、感謝の祭儀を行う集会に、キリストの平和を与えます。このキリストの平和が、皆様と、皆様のあかしによって生きる共同体の上にゆきわたりますように。
 わたしたちは、共同体のために働いておられる、終身助祭、カテキスタ、司牧奉仕者がなさっている奉仕を、感謝をもって思い起こします。皆様が、その思いと行いにおいて、共同体の司牧者との完全な交わりによって力づけられながら、いつも実り豊かで寛大な奉仕を行うことができますように。

20 親愛なる愛すべき兄弟姉妹の皆様。わたしたちは、どのような身分にあろうとも、キリスト・イエスと同じ思いを抱き(フィリピ2・2参照)、キリスト・イエスの模範に倣って、互いに謙遜において競い合いながら、洗礼によって与えられたわたしたちの召命を生きるように招かれています。わたしたちが互いに抱いている愛は、主に倣うだけのものではありません。それは、主がご自分のいのちを与えながら、わたしたちの中におられることの生きたあかしなのです。すべての奉献生活者の皆様に、ごあいさつ申し上げ、また感謝いたします。皆様は主のぶどう畑の選ばれた部分です。皆様は、来たるべきかたである花婿についてのよい知らせを、進んであかししておられます(黙示録22・17-20参照)。キリストへの奉仕を通じて、皆様は、聖体に生かされたあかしを行います。このあかしは、世の闇の中の愛の叫びであり、「スタバト・マーテル(悲しみの御母はたたずみ給えり)」と「マグニフィカト(マリアの歌)」という、古代のマリア賛歌をこだまします。特別な意味で聖体に生かされた女性であるかた、星の冠をかぶり、愛に満たされたかた、天に上げられ、無原罪のうちに宿られたおとめが、復活の喜びのうちに、世の希望のため、神と貧しい人に奉仕する皆様を見守ってくださいますように。

21 親愛なる青年の皆様。教皇ベネディクト十六世は繰り返して、皆様が自分をキリストにささげても、何も失うことはないといわれました。教皇ベネディクト十六世が、教皇就任ミサで力強く、また静かに語ったことばに、もう一度耳を傾けたいと思います。それは、皆様の個人としての自由を最大限に尊重しつつ、皆様を真の幸福に導くために語られました。「キリストを恐れないでください。キリストは何も奪うことはありません。また、キリストは皆様にすべてのものを与えてくださいます。自分自身をキリストにささげるなら、わたしたちは百倍を受けます。そうです、キリストに向けて、大きく、大きく、扉を開きなさい。そうすれば、皆さんはまことのいのちを見いだすでしょう」。わたしたちは、この世の積極的な価値を伸ばし、不正と暴力を改めようとする、皆様の力と望みに心から信頼しています。わたしたちの支えと祈りを信じてください。そうすれば、わたしたちは一緒に、キリストとともに未来を築くという課題を引き受けることができます。皆様は「朝の見張り」であり、「未来の探検家」です。必要な変革をもたらす力を、聖体がもつ神的な力の源から汲み取ることをためらわないでください。
 若い神学生の皆様。皆様は、司祭の奉仕職を行う準備をしておられます。また、皆様は、同世代の青年と、未来への希望を共有しています。わたしたちは、真の意味での聖体の霊性が、神学生の養成のすみずみにまでゆきわたることを望みます。

22 親愛なる結婚したキリスト信者の夫婦とその家族の皆様。家庭教会としての皆様の聖性への召命は、聖体の聖なる食卓によって養われます。結婚の秘跡に対する皆様の信仰は、皆様の婚姻のきずなを、聖霊の神殿に変えます。それは新しいいのちをもたらす豊かな源となって、皆様の愛の実りである、子どもを生み出します。わたしたちはシノドスにおいて皆様のことをしばしば語りました。なぜなら、わたしたちは、現代世界が脆弱(ぜいじゃく)で不確実なことを知っているからです。常に力を尽くして、皆様の子どもの信仰を育ててください。皆様は、司祭職と奉献生活への召命を生み出す源です。キリストが皆様のきずなのうちに住んでいることを忘れないでください。キリストは、皆様が自分たちの召命を聖なるしかたで生きるために必要な、すべての恵みを与えてくださいます。わたしたちは、皆様が家族として日曜日のミサにあずかり続けることを奨励します。このようにして、皆様はイエスの心を喜ばすことができるのです。イエスはこういわれたからです。「子どもたちをわたしのところに来させなさい」(マルコ10・14)。

23 わたしたちは、苦しんでいる人、特に病気の人、障害のある人に、特別に呼びかけたいと思います。皆様は、ご自分の苦しみを通じて、キリストのいけにえと結ばれているからです(ローマ12・2参照)。皆様は、そのからだと心の苦しみによって、特別なしかたで聖体のいけにえにあずかります。ですから皆様は、聖体がもたらす愛の特別な証人です。わたしたちは、自分の弱さと限界を感じるときに、聖体の力が大きな力となりうることを確信しています。とりわけ、病気が罪のない子どもを襲うとき、キリストの過越の神秘に結ばれることによって、わたしたちは死と苦しみの痛みに対する答えを見いだします。わたしたちは皆様すべてとともにいます。特にわたしたちは、死の床にある人、み国への最後の旅路を歩むために、キリストのからだを最後のかてとして受ける人とともにいます。

すべての人が一つになるために

24 教皇ベネディクト十六世は、エキュメニズムの問題に対して教会が真剣に取り組むことを、あらためて表明しました。わたしたちは皆、この一致のために責任を負っています(ヨハネ17・21参照)。なぜなら、わたしたちは皆、受けた洗礼のゆえに、神の家族に属しており、基本的に同じ尊厳を与えられ、言い表しえない神のいのちの秘跡のたまものにあずかっているからです。わたしたちは皆、分裂によって、ともに感謝の祭儀を行うことができない悲しみを感じています。わたしたちは、共同体の中で一致のために祈り、教会・教会共同体間でたまものを分かち合い、すべての人が互いに尊敬と兄弟愛をもって接することを推進したいと望みます。それは、わたしたちが互いのことをもっとよく知って、愛を深め、わたしたちの違いと、共有する価値観を尊重し、評価できるようになるためです。教会は、はっきりとした規定によって、まだわたしたちと完全な交わりをもたない兄弟姉妹と聖体を分かち合うことについて、わたしたちがとるべき態度を定めています。規則は適切なしかたで、真の意味での交わりをいっそう損なう可能性のある、混乱と不賢明な振舞いを禁じています。

25 キリスト信者であるわたしたちは、他のアブラハムの子孫、すなわち、最初に契約を受け継いだユダヤ人と、イスラム教徒の隣人です。聖アウグスチヌスのことばを使えば、わたしたちはまた、感謝の祭儀を行うとき、わたしたちが「人類という秘跡」(『神の国』16)であることを信じています。それは、地上から神のもとへと上る、すべての祈りと願いの声なのです。

結論―希望に満ちた平和

親愛なる兄弟姉妹の皆様。

26 第二バチカン公会議の40年後に開催された、この世界代表司教会議第11回総会が、わたしたちを教会の神秘の源泉へと立ち帰らせてくれたことを、神に感謝したいと思います。こうしてわたしたちは、一致のうちに強められ、使徒としての宣教への熱意を新たにしながら、すばらしいかたちで聖体年を終えます。
 4世紀の初め、キリスト信者が礼拝することは、ローマ帝国の権力者によってなおも禁じられていました。北アフリカのキリスト信者は、主日の祭儀を忠実に果たすために、この禁止に背きました。彼らは、日曜日の感謝の祭儀なしに生きることはできないと宣言したために、殉教しました。このアビティナの49名の殉教者たちは、聖体を自分の生活の中心とした多くの聖人と福者とともに、この新千年期の初めに生きるわたしたちのために祈っています。彼らは、復活したキリストと結ばれた新しい契約による集会を忠実に守るように、わたしたちを教え導いています。
 世界代表司教会議を終えるにあたって、わたしたちは、エマオの弟子たちが、その心を燃やしながら、復活した主から与えられた、希望に満ちた平和を感じています。弟子たちは出発して、すぐにエルサレムに戻ると、その信仰における兄弟姉妹たちと喜びを分かち合いました。皆様が喜んで聖体のうちに主と出会いに行き、この主のことばが真実であることを味わってくださることを希望します。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28・20)。
 愛すべき兄弟姉妹の皆様。あなたがたに平和がありますように。

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