教皇ベネディクト十六世の25回目の一般謁見演説 詩編136(前半)

11月9日(水)午前10時30分から、教皇ベネディクト十六世の25回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4月曜日の晩の祈りで用いられる詩編136(朗読箇所は詩編136・1-9)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見には、三末篤實司教とともにローマを訪れた広島教区の巡礼者をはじめ、25,000人の信者が参加しました。


1 この詩編は「大きなハレル」と呼ばれる詩編の一つです。「大きなハレル」とは、ユダヤ教の過越の典礼で唱えられた、荘厳でおごそかな賛美の歌です。わたしたちは、晩の祈りで用いられる区分に従って、この詩編136の前半を聞きました。
 まず、「いつくしみはとこしえに」という、繰り返して述べられることばについて考察したいと思います。この句の中心で響いているのは「いつくしみ」ということばです。実際、「いつくしみ」は、元のヘブライ語の「ヘセド」を、正しく訳してはいますが、その意味を十分伝えきれていません。実にこのことばは、主とその民の間で結ばれた契約を表すために、聖書で用いられる、特別なことばなのです。このことばは、この契約という関係から生まれた態度を述べようとしています。すなわち、忠実、忠誠、愛、そしていうまでもなく、神の憐れみです。
 ここでわたしたちは、造り主と造られたものとの間に結ばれた、深い相互のきずなについて、簡単にまとめてみたいと思います。このような関係を結んだ神を、聖書は、顔色も変えない厳しいかた、あるいは、捉えどころのない、なぞめいた存在、あるいは抗(あらが)ってもしかたのない神秘的な力を帯びた運命として、述べていません。反対に、神は、ご自分が造られたものを愛する者であることを示します。神は造られたものに目をとめ、歴史の流れに沿って彼らとともに歩み、また苦しみます。それは、不忠実な民が、神の「いつくしみ(ヘセド)」、神の憐れみ、その父としての愛にしばしば背いたからです。

2 詩編は、この神のいつくしみを表す最初のしるしを、被造物の中に見いださなければならないといいます。その後に、歴史が来ます。感嘆と驚きに満たされながら、わたしたちはまず、立ち止まって、造られたすべてのものを、すなわち、天、大地と水、太陽と月と星を眺めます。
 民の歴史の中で示された、神の姿を見いだすよりも前に、そこには、啓示された宇宙があります。それはすべてのものに示されています。それは唯一の造り主、「神の中の神」、「主の中の主」(2-3節参照)によって、全人類に与えられているのです。
 詩編19が述べるように、「天は神の栄光を物語り、大空はみ手のわざを示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る」(詩編19・2-3)。それゆえ、神のメッセージは、造られたものに密かに刻み込まれています。それは「いつくしみ(ヘセド)」、すなわち、神のいつくしみ深い忠実さのしるしです。神は造られたものに存在といのち、水と食物、光と時間を与えるからです。
 人は、この神の啓示を観想する、澄んだ目をもたなければなりません。わたしたちは、知恵の書に書かれたいましめを思い出さなければならないのです。知恵の書は、わたしたちを、「造られたものの偉大さと美しさから推し量り、それらを造ったかたを認める」ように招いています(知恵13・5。ローマ1・20参照)。造られたものに示された、神の「驚くべき大きなみわざ」(詩編136・4参照)を観想することによって、賛美の祈りがあふれ出てきます。この祈りが、賛美の喜びの歌に、また、主への感謝に変わります。

3 それゆえ、人は、創造のわざから、神の偉大さへと、そのいつくしみ深い憐れみへと上っていきます。キリスト教の伝統の中に常にその声を響き渡らせる、教父たちがわたしたちに教えているのは、このことです。
 大聖バジリオは、『ヘクサエメロン(創造の六日間)についての講話』第1講話の冒頭で、創世記1章に述べられた創造物語を注解しています。そこでバジリオは、しばらく神の知恵に満ちたわざを考察します。そこからバジリオは、神のいつくしみのうちに、創造が始まった核心を認めるに至ります。このカッパドキアのカイサレイアの聖なる司教が書いた長い考察の中から、いくつかの箇所を読んでみたいと思います。
 「『初めに神は天地を創造された』。このすばらしい考えにわたしはことばを詰まらせる」(『ヘクサエメロン(創造の六日間)』1・2・1:Sulla Genesi, Milano, 1990, pp. 9. 11〔以下、邦訳、出村和彦訳、上智大学中世思想研究所編訳『中世思想原典集成2 盛期ギリシア教父』平凡社、1992年、286-288頁〕。実際、ある人々は「その心の内に棲みついた無神論のゆえに欺かれて、宇宙万物は導き手を失って秩序をなくし、偶然に任せて運行していると考えるに至っているのである」。これに対して、聖書は「『初めに神が創造した』と語って、この語りの冒頭においてすぐに『神』ということばを用いることによって、われわれの思考を照らしてくれたのである。その秩序はなんと美しいことだろう」(同1・2・4:ibid., p. 11)。「それゆえ、もし宇宙が始まりをもち、創造されたものであるならば、この宇宙に始まりを与えたものが何者であり、その制作者が誰であるかを探究しなければならない。・・・・モーセは『初めに神は創造した』と語って、『神』という誉れ高きことばを、われわれの心に刻印と守り手として刻みつけて、彼の教えの先触れとしたのである。かの至福なる本性、惜しみなき善そのもの、理性にあずかるすべての者から愛される対象、大いに求められる美、存在者の端緒(原理)、生命の源、知性の光、近寄りがたき知恵であるかのかたが、初めに天地を創造したのである」(同1・2・6-7:ibid., p. 13)。
 わたしは、この4世紀の教父のことばが、驚くほど現代にもあてはまると思います。それはこう述べているからです。ある人々は「その心の内に棲みついた無神論のゆえに欺かれて、宇宙万物は導き手を失って秩序をなくし、偶然に任せて運行していると考えるに至っているのである」。今日、この「ある人々」が、どれほどたくさんいることでしょうか。無神論のゆえに欺かれて、彼らは、万物は導き手を失って秩序をなくし、偶然に任せて運行していると考えるのが科学的だと考え、またそのことを証明しようとしています。主は聖書を通じて、眠りに陥った理性を呼び覚まし、わたしたちにこう語りかけます。初めに造り主であるみことばがあったと。初めに、造り主であったみことばは――すなわち、万物を造り、秩序ある宇宙という、知的な計画を造ったかたである、このみことばは、愛でもあります。
 ですから、この神のみことばに、目覚めさせていただこうではありませんか。このみことばが、わたしたちの心をも照らし、わたしたちが、創造のうちに示されたメッセージを読み取ることができますように、祈りましょう。このメッセージは、わたしたちの心にも書かれているからです。万物の起源は、造り主である知恵であり、この知恵は、愛といつくしみです。「いつくしみはとこしえに」。

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