教皇ベネディクト十六世の26回目の一般謁見演説 詩編136(後半)

11月16日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の26回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、前週に続いて、教会の祈りの第4月曜日の晩の祈りで用いられる詩編136(朗読箇所 […]

11月16日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の26回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、前週に続いて、教会の祈りの第4月曜日の晩の祈りで用いられる詩編136(朗読箇所は詩編136・10-26)の後半の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見には22,000名の信者が参加しました。
謁見の終わりに、イタリア語で行われた祝福の中で、教皇は、イタリアのプロ・ライフ運動代表者たちに次のように述べました。「親愛なる『いのちのための運動』の代表者の皆様。受胎から自然死に至るまでのすべての人のいのちと人格の尊厳を促進し、守るために、皆様が30年にわたり行ってこられた、勇気ある活動に感謝いたします。皆様は、女性と家庭を支えるための注意深い活動を行いながら、自発的な人工妊娠中絶の防止に努めることによって、人類の未来の新しいページを書き記す手助けをしておられます。こうして皆様は、具体的なかたちで『いのちの福音』を告げ知らせるのです」。


1 わたしたちは再び、詩編136の賛美の歌を考察します。教会の祈りの晩の祈りでは、この詩編を二つに分けて、続けて唱えることになっています。これは、内容上の構成による、特別な区分に従ったものです。実際、主のわざの記念は、空間と時間という二つの領域で行われます。
 前回の考察で取り上げた前半(1-9節参照)では、創造によって示された神のわざが述べられました。神の創造のわざは、宇宙への驚きを生み出します。詩編のこの前半では、宇宙にある被造物を通して自らを示してくださった、造り主である神への信仰が宣言されます。詩編作者のこの喜びの歌は、ユダヤ教で伝統的に「大きなハレル」、すなわち、主にささげられた最高の賛美と呼ばれます。ところで、この喜びの歌は、今日の箇所では、歴史という、別の領域へとわたしたちを導きます。それゆえ、詩編の前半は、神の美しさを映し出すものとしての、被造物について語ります。そして、詩編の後半は、歴史と、時の流れの中で神がわたしたちに行われたいつくしみ深いわざについて語るのです。わたしたちが知っているように、聖書の啓示は、繰り返し、救い主である神の現存が、救いの歴史を通して、特別なしかたで示されることを告げ知らせています(申命記26・5-9、創世記24・1-13参照)。

2 こうして、詩編作者は、目の前で主の解放のわざが行われていくのを眺めます。この解放のわざの中心となるのは、エジプトからの脱出という、根本的な出来事です。エジプトからの脱出は、シナイの荒れ野での困難な旅と深いつながりがあります。この旅は、約束の土地で終わります。この、約束の土地が、神からたまものとして与えられることを、イスラエルは聖書の全体を通して経験し続けました。
 主は、打ち倒した怪物を裂いて無力にするかのように、海を「二つに分け」ます(詩編136・13参照)。この有名な、紅海を渡った出来事が、使命を帯びて未来の栄光へと招かれた、解放された民を生み出します(14-15節、出エジプト15・1-21参照)。キリスト教は、この栄光を、洗礼の恵みによって完全に悪から救われることと解釈しました(一コリント10・1-4参照)。それから、荒れ野の旅が始まります。この旅の中で、主は戦士としての姿を示します。主は、紅海の渡渉から始まった救いのわざを続けながら、自分の民の味方となって、民の敵を打ち倒し、民を守ります。それゆえ、荒れ野と海は、自由と約束の土地をたまものとして与えられるために、悪と苦しみを過ぎ越すことを表します(詩編136・16-20参照)。

3 最後に、詩編は、あの約束された土地を示します。この土地について、聖書は高らかにこうほめたたえています。「川が流れ、泉が湧き、地下水があふれる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である」(申命記8・7-9)。
 現実の土地にありえないような、この誇張された賛美は、神の与えるたまものをたたえるために行われたものです。この賛美に促されて、わたしたちは、神ととともに永遠に生きるという、最高のたまものが与えられることを期待します。神が与えるたまものによって、民は自由になることができました。このたまものは、すべての節に置かれた答唱句で続けて繰り返されているように、主の「いつくしみ(ヘセド)」から生まれたものです。それは、イスラエルと契約を結んで行った約束に対する主の忠実さ、主の愛から生まれたものです。主は、民を「み心に留め」ることによって、この愛を表し続けます(詩編136・23参照)。「低くされた」とき、すなわち、試練と苦しみが続くときにも、イスラエルは常に、自由をもたらす、愛に満ちた神の救いの手を見いだします。飢えや貧しさに苦しむときも、主は姿を現して、すべての人に食物を与え、ご自分が造り主であることを保証します(25節参照)。

4 それゆえ、詩編136では、唯一の神の啓示が示される、二つのあり方が組み合わされています。啓示は、宇宙において(4-9節参照)、また、歴史において示されるのです(10-25節参照)。造り主であり、すべての存在を支配する主が、すべてのものを超えるかたであることはいうまでもありません。けれども、主はまた、造られたものに近づくために、空間と時間の中に入ってこられます。主は、天のはるか遠くの、わたしたちと離れたところにおられるかたではありません。それどころか、主がわたしたちの中にいてくださることは、キリストの受肉によってその頂点に達しました。
 これこそ、この詩編に関するキリスト教の解釈が、はっきりと告げることにほかなりません。教父たちが示している通りです。教父たちは、御子というたまもののうちに、救いの歴史の頂点、また、御父の憐れみ深いいつくしみの最高のしるしを認めました。御子は、人類の救い主であり、あがない主だからです(ヨハネ3・16参照)。
 さて、3世紀の殉教者である、聖チプリアノは、その著作『善行と施しについて』の初めに、御父が御子キリストによってご自分の民のために成し遂げたわざを、驚きをもって考察しています。こうしてチプリアノは、最後に、神の憐れみを心から認めます。「愛する兄弟たちよ、神の恵みは豊かで、偉大なものである。われわれの救いのために、父なる神とキリストの寛大にして豊かな憐れみが、かつて与えられ、今も与えられているからである。父はわれわれを守り、生命を与えるために、また子によってわれわれを元の状態に修復するために、子を遣わされた。子はわれわれを神の子とするために、自ら人の子となることを望まれ、この世に遣わされた。倒れていた者を起き上がらせるために自らはへりくだり、われわれの傷を癒すために自らは傷つけられた。奴隷状態にあった人間を自由な状態へ引き上げるために自らは奴隷のように仕え、死すべき人間に不死を与えるために自らは死を耐え忍ばれた。神の憐れみはこれほど豊かで、偉大なたまものなのである」(『善行と施しについて』1:Trattati. Collana di Testi Patristici, CLXXV, Roma, 2004, p. 108〔邦訳、吉田聖訳、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成4 初期ラテン教父』平凡社、1999年、253頁〕)。
 これらのことばによって、この聖なる教会博士は、詩編をさらに展開させています。彼は、神がわたしたちに与えてくださった恵みを数え上げながら、詩編作者がまだ知らなかったが、すでに期待していたこと、すなわち、神がわたしたちに与えた真のたまものを付け加えます。すなわち、御子というたまもの、受肉のたまものです。このたまものによって、神がわたしたちに与えられ、わたしたちとともにとどまってくださるからです。 神は、聖体とみことばのうちに、世の終わりまで、日々わたしたちとともにとどまってくださるのです。
 わたしたちが受けた悪についての記憶は、いつくしみについての記憶をしばしば上回る恐れがあります。詩編は、わたしたちが、いつくしみについての記憶、すなわち、主がわたしたちに与えてくださった、また与え続けておられるすべてのいつくしみについての記憶を思い起こすのを助けてくれます。こうしてわたしたちは、自分たちの心がこのことに気づいているかどうか知ることができるようになります。すなわち、まことに、神のいつくしみは永遠であり、とこしえにわたしたちとともにあるのだと。

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