教皇ベネディクト十六世の27回目の一般謁見演説 エフェソ1

11月23日(水)午前10時30分から、寒風の吹きつける中、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の27回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4月曜日の晩の祈りで新約の歌として用いられる […]

11月23日(水)午前10時30分から、寒風の吹きつける中、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の27回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4月曜日の晩の祈りで新約の歌として用いられる、エフェソの信徒への手紙の賛歌(朗読箇所はエフェソ1・3-10)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見には25,000名の信者が参加しました。
次の日曜日(11月27日)から待降節が始まります。謁見の最後に、イタリア語で行われた祝福の中で、教皇は次のように述べました。「霊的な熱意をもって待降節の準備をなさるよう、皆様にお願いします。来るべき主を迎えるための内的な力を、神のことばと聖体から汲み取ってください」。


1 毎週、教会の祈りは、晩の祈りで、今聞いたばかりのエフェソの信徒への手紙の冒頭の荘厳な賛歌を用いています。この賛歌は、「ベラホート」すなわち「祝福」の文学類型に属します。「祝福」は、すでに旧約聖書に現れ、後にユダヤ教の伝統の中で広まりました。それゆえ、「祝福」は、神に向かって常に注ぎ出される賛美です。この神は、キリスト教の信仰においては、「わたしたちの主イエス・キリストの父」としてたたえられます。
 ですから、今読まれた賛美の歌で中心となるのは、キリストの姿です。父である神のわざは、このキリストにおいて現され、完成されたからです。実際、この一つながりの長い文章で述べられた、簡潔な賛歌で用いられる、三つの主な動詞は、常にわたしたちを御子へと導きます。

2 神は「わたしたちをキリストにおいてお選びになりました」(エフェソ1・4)。つまりわたしたちは、聖なる者となるように、また、神の養子とされ、したがってキリストの兄弟となるように召し出されました。わたしたちの被造物としての身分を根本的に作り変える、このたまものは、「イエス・キリストによって」(5節)わたしたちに与えられました。このキリストのわざは、神の偉大な救いの計画によって、すなわち、御父のいつくしみ深い「御心」(5節)によって、行われたものです。使徒パウロは、この御心を仰ぎ見て感嘆します。
 「選ぶ」という動詞(「わたしたちをお選びになりました」)に続いて用いられる、二番目の動詞は、恵みのたまものを表します。「その愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵み」(6節)。ここでは、「カリス(恵み)」と「エカリトーセン(与えてくださった)」という、ギリシア語で同じ語根をもったことばが2回用いられています。それは、あらゆる人間の応答に先立って、神のほうから無償で恵みが与えられることを強調するためです。それゆえ、父がそのひとり子によってわたしたちに与える恵みは、神の愛を示します。この愛が、わたしたちを包み、作り変えるのです。

3 こうしてわたしたちは、パウロの賛歌で用いられる三番目の基本的な動詞に到達します。このパウロの賛歌で用いられる動詞は、常に神の恵みを対象としています。「この恵みをわたしたちの上にあふれさせ」(8節)。それゆえ、わたしたちは、「あふれる」恵みの前に置かれます。ことばの元の意味に従えば、こういうこともできます。すなわち、わたしたちは、あり余るほどのものを、限界も制限もなく与えられるのです。
 そこでわたしたちは、栄光に満ちた、限りなく深い神の神秘を知ります。この神秘は、恵みと愛によって召し出された者に、恵みによって示されました。この啓示は、人間の知恵と力しかもたない者には、究め尽くすことができません。「『目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された』と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が〝霊〟によってそのことを明らかに示してくださいました。〝霊〟は一切のことを、神の深みさえも究めます」(一コリント2・9-10)。

4 神の「御心」の「神秘」は、一つの中心をもっています。この中心は、あらゆるもの、また、すべての歴史を一つに結び合わせることを目指しています。この中心は、すべてのものを神の望んだ完成へと導くからです。「こうして、時が満ちるに及んで、救いのわざが完成され、あらゆるものが、頭(かしら)であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも、地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(エフェソ1・10)。この「救いのわざ」(ギリシア語で「オイコノミア」)、すなわち、存在するすべてのものを一つにまとめ、調和をもたらす計画の中心にいるのは、キリストです。キリストは、教会のからだの頭だからです。同時にまた、キリストは、「天にあるものも、地にあるものも」ご自身のうちに再統合する中心でもあります。すべての分裂と限界は過ぎ去り、あの「あふれる豊かさ」が完成します。これこそが、神の御心が初めから前もって定めていた計画の、真の目標です。
 こうしてわたしたちは、創造と救いの歴史を描いた、すばらしいフレスコ画を目の当たりにすることになります。この創造と救いの歴史について、ここで聖イレネオのことばによって、さらに考察を深めてみたいと思います。イレネオは2世紀の偉大な教会博士です。イレネオは、その教義的な著書『異端反駁』の中で、キリストによって成し遂げられた再統合のわざについて、独自の考察を展開しています。

5 イレネオはいいます。キリスト教信仰が確認しているように、「父なる神はひとり、わたしたちの主キリスト・イエスもひとりあって、(キリストは救いの)営み全体を通じて来る(かた)、万物を自分のうちに再統合するかたである。ところで、その万物の中には神が形造ったものである人間も(含まれて)いる。それゆえ、(キリストは)人間をも自分のうちに再統合したのである。それは、神のみことばが、超天上的、霊的、不可視の(領域)で第一のものであるように、可視的、物体的な(領域)でも主権をもつ(ためである)」(『異端反駁』3・16・6:Già e non ancora, CCCXX, Milano, 1979, p. 268 〔邦訳、小林稔訳、『キリスト教教父著作集3/Ⅰ 異端反駁Ⅲ』教文館、1999年、84頁〕)。
 それゆえ、「神のみことばが・・・・肉のように見えただけであったとすれば、そのわざは真実なものではなかったことであろう」。これに対して、神のみことばは「(現象として)見えた(通り、実際、見えた通りのもの)でもあった。(すなわち)人間という昔の形成(物)を自らのうちに再統合した神(であった)。(彼がそうしたのは)罪を殺し、死を滅ぼし、人を生かすためであった。そして、このゆえに『そのわざは真実』なのである」(同3・18・7:ibid., pp. 277-278〔邦訳、98-99頁〕)。みことばは、時が満ちると、すべてのものをご自分のもとに引き寄せるために、教会の頭となりました。今聞いた聖イレネオのことばを心にとめながら、祈りましょう。そうです、主よ、わたしたちをあなたのもとに引き寄せてください。世界をあなたのもとに引き寄せて、わたしたちに平和を、すなわち、あなたの平和を与えてください。

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