教皇ベネディクト十六世の28回目の一般謁見演説 詩編137

11月30日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の28回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4火曜日の晩の祈りで用いられる、詩編137(朗読箇所は詩編137 […]

11月30日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の28回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4火曜日の晩の祈りで用いられる、詩編137(朗読箇所は詩編137・1-2、4-6)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
途中から雨が降り出しましたが、謁見には23,000名の信者が参加しました。
演説の後、イタリア語で行われた祝福の中で、教皇は、翌12月1日に行われる世界エイズデーに寄せて、次のように述べました。「明日12月1日は世界エイズデーです。世界エイズデーは、エイズという病気への関心を呼び起こし、また、エイズ予防と、エイズにかかった人の援助に、国際社会があらためて取り組むよう呼びかけるために、国連が始めたものです。明らかにされている統計データは、ほんとうに驚くべきものです。キリストの模範に従って、教会は常に、病者に対する世話をその使命の一部と考えてきました。それゆえわたしは、このエイズという病気を撲滅するための多くの計画が、とりわけ教会共同体によって推進されることを励ましたいと思います。またわたしは、エイズ患者とその家族の皆様のことを心にかけます。このかたがたの上に、主の助けと慰めが与えられるように祈ります」。
教皇庁保健従事者評議会のハビエル・ロザーノ・バラガン枢機卿は、今年の世界エイズデーに向けたメッセージを12月1日付で発表しています。メッセージの中で、バラガン枢機卿は、2005年現在、HIVウィルス感染者は4,030万人で、そのうち230万人は15歳以下であると述べています。また、2005年だけで490万人がHIVウィルスに感染し、そのうち70万人が15歳以下です。2005年にすでに310万人がエイズで死亡しましたが、そのうち57万人が15歳以下です。


1 待降節は、典礼暦において、沈黙のうちに目覚めて祈りながら降誕祭を準備する期間です。この待降節の第一水曜日にあたり、わたしたちは、詩編137を考察したいと思います。詩編137は、ラテン語訳で「バビロンの流れのほとりに座り」(Super flumina Babylonis)ということばで始まることでよく知られています。このテキストは、紀元前586年に起こったエルサレムの破壊と、それに続くバビロン捕囚の期間に、ユダヤ人が体験した悲しい出来事を思い起こさせます。わたしたちは、民が歌う悲しみの歌を耳にします。この悲しみの歌は、失われたものへのつらい追憶に彩られています。
 詩編は、主を信じる者をバビロンの捕囚から解放してくれるように、心から主に祈り求めます。この祈りはまた、救いを希望し、期待する心をも表しています。わたしたちも、この希望と期待をもって、待降節の歩みを始めているのです。
 詩編の前半(1-4節参照)は背景となっている捕囚の地について述べています。そこでは、ユダヤ人を連れ去った本拠地であるバビロンの平原を、河と運河が流れています。それは、過ぎ去ったばかりの前世紀に、ユダヤ人が連行され、人類の歴史に消し去ることのできない汚点を残した、おぞましい殺害が行われた、強制収容所の始まりを象徴するかのようです。
 詩編の後半(5-6節参照)は、シオン(エルサレム)への愛を込めた思い出に満たされています。シオンという町は失われましたが、捕囚の民の心の中で生き続けています。

2 詩編作者は、右手、舌、上顎(あご)、歌、そして涙について語っています。右手は竪琴(たてごと)を弾く人にとって、なくてはならないものです。けれども、その右手は、悲しみのためになえたままです。そればかりか、竪琴は柳の木々に掛けられています。
 歌い手が歌うには、舌が必要です。けれども、舌は上顎にはり付いています(6節参照)。ユダヤ人を捕囚にしたバビロンの民が「楽しもうとして、『歌って聞かせよ』と」(3節)求めます(3節)。シオンの歌は、主への賛歌であり(3-4節)、民謡でも、見せ物のための歌でもありません。ユダヤの民が天に向かうことができるのは、ただ典礼の中だけであり、また、彼らが解放されたときだけです。

3 神のみが、歴史を支配する主です。だから神は、その正義に基づいて、しいたげられた者が、時に恨みがましい声を上げても、彼らの叫びを聞いて、受け入れることができます。
 わたしたちは、聖アウグスチヌスに、この詩編についての考察を続けてもらうことにしたいと思います。この教父は、『詩編注解』の中で、現代にも大いにあてはまるような、驚くべき内容を述べています。アウグスチヌスは、バビロンの住民の中にも、平和と共同体の善益のために努力する人々がいるといいます。しかも、彼らは、聖書の信仰をもつこともなければ、わたしたちが待ち望む永遠の国への希望についても知りませんでした。彼らは、未知のもの、より偉大なもの、この世を超えるもの、ほんとうの意味でのあがないを望む、心の火花をもっていたのです。
 またアウグスチヌスは、迫害する者、信仰をもたない者の中にも、彼らが生活する状況で、彼らに可能な限りで、このような望みの火花、ある種の信仰、希望をもっている人々がいるといっています。このような、未知の存在への信仰をもっていることにおいて、彼らは実際に、真のエルサレムへと、すなわちキリストへと歩み始めています。このような希望の始まりは、バビロン人にもあるということができると、アウグスチヌスはいいます。すなわちそれは、キリストも神も知らないが、にもかかわらず、未知のもの、永遠のものを求める人々の中に見られるのです。だから、アウグスチヌスは、今この時の物質的なものだけを見るのではなく、神への道を忍耐強く歩むようにと、わたしたちに勧めます。このような大きな希望をもつことによって、わたしたちは、正しいしかたでこの世を変えることができるからです。
 聖アウグスチヌスは、それをこう述べています。「もしわたしたちがエルサレムの市民なら、・・・・また、わたしたちがこの世に生きなければならないなら――すなわち、混乱した今の世の中で、わたしたちが市民としてでなく捕囚として生きている、現代のバビロンの中で生きなければならないなら、わたしたちは、詩編が述べていることを歌うだけでなく、それを生きなければなりません。そのためには、永遠の国を心から敬虔に待ち望む、深い心のあこがれが必要です」。
 アウグスチヌスは、「バビロンと呼ばれる地上の国」について述べながら、こう付け加えます。「この国には、平和を実現することへの愛に動かされて、平和、すなわち地上の平和を実現するために働く人々がいます。彼らは心の中で、希望を、すなわち、平和のために働く喜びを育んでいます。彼らは、地上の社会の役に立とうと力の限り努力しています。けれども、もし彼らが清らかな良心をもってその使命に励むならば、神は、彼らをバビロンとともに滅ぼすことはしないでしょう。なぜなら、神は、彼らをエルサレムの住民としてあらかじめ定めていたからです。ただし、そのために彼らは、バビロンに住んでいても、傲慢にならず、はかない栄華を求めず、高ぶって人をさげすんだりしてはなりません。・・・・神は彼らの行う奉仕のわざをご覧になり、彼らにもう一つの国を示します。その国こそ、彼らがほんとうに待ち望み、そのために努力を尽くすべきものだからです」(『詩編注解』136・1-2:Nuova Biblioteca Agostiniana, XXVIII, Roma, 1977, pp. 397, 399)。
 主がわたしたちすべてのうちに、このような望みと、神に開かれた心を呼び覚ましてくださるように祈りましょう。また、神を知らない人の上にも、神の愛が注がれますように。こうして、わたしたち皆がともに永遠の国をめざして歩み、この永遠の国の光が、現代と現代世界をも照らしますように。

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