教皇ベネディクト十六世の2005年12月4日の「お告げの祈り」のことば 第二バチカン公会議閉会40周年を前に

教皇ベネディクト十六世は、12月4日(日)正午に、教皇庁公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。 「 […]

教皇ベネディクト十六世は、12月4日(日)正午に、教皇庁公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
「お告げの祈り」の後に、フランス語で行われた祝福の中で、教皇は、12月9日が国連「障害者の人権宣言」発布30周年であることに触れて、次のように述べました。「今朝ここにお集まりくださった、フランス語を話す巡礼者の皆様にごあいさつ申し上げます。社会で恵まれない人々のことをあらためて心にとめながら、心の中で主の道を準備してください。今週の12月9日(金)に、わたしたちは、国連による『障害者の人権宣言』発布30周年を記念します。わたしはこの機会に、皆様の一人ひとりが、社会、職場、またキリスト教共同体への障害者の参加をますます促進してくださるようお願いします。こうして、すべての人間のいのちが、受胎から自然死に至るまで、尊重され、守られるべきであることを思い起こしていただきたいと思います」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 この待降節の間、教会共同体は、偉大な受肉の秘義を祝う準備をしながら、神との個人的な関係を再発見し、深めるように招かれています。「待降節」を表すラテン語「アドヴェントゥス」は、キリストの到来、すなわち、神が人類のほうにやって来られることを意味します。一人ひとりの人は、開かれた心と、期待と、探求と、信頼をもって、この神の到来に答えるよう呼ばれています。そして、力ある神が、ただ愛のみに促されて、自由にご自身を啓示し、与えてくださったように、人間も、そうするのが当然のことであるにもかかわらず、自由に、神を認めるのです。神は、人間が愛をもって答えることを待ち望んでおられるからです。この数日間、典礼は、このような人間の応答の完全な模範である、おとめマリアを祝います。わたしたちは、12月8日の木曜日に、聖マリアの無原罪の御宿りの神秘を観想するのです。
 おとめマリアは、神に耳を傾けるかた、いつも主のみ旨を実現する準備ができているかた、また、神を探し求めて生きる信者の模範です。このようなテーマについて、すなわち、真理と自由の関係について、第二バチカン公会議は注意深い考察を行いました。とりわけ、ちょうど40年前に、公会議教父たちは、『信教の自由に関する宣言』を承認しました。信教の自由とは、個人と共同体が、自由に真理を探求し、自分の信仰を告白することができる権利です。この文書の標題ともなっている、その最初のことばは、「人格の尊厳」(dignitatis humanae)です。信教の自由は、人間のみがもっている尊厳に由来します。人間は、地上のすべての被造物の中で、唯一、自由に、また意識的に、造り主と関係をもつことができるからです。
 公会議はこう述べています。「すべての人間は、人格、すなわち、理性と自由意志を備え、したがって個人的責任を帯びるものとしての自分の尊厳のゆえに、本性的に真理、なかでも、宗教的真理を探求する衝動に駆られ、また道徳的にそうする義務を負わされている」(『信教の自由に関する宣言』2)。
 このようにして、第二バチカン公会議は、伝統的なカトリックの教えを再確認しました。伝統的なカトリックの教えによれば、人間は、霊的な被造物であるがゆえに、真理を知ることができ、また、真理を探求する義務と権利をもつからです(同3参照)。このような基盤に基づいて、公会議は、信教の自由について詳しく取り扱いました。信教の自由は、正当な公共の秩序の必要を尊重しながら、個人に対しても共同体に対しても守られなければなりません。公会議のこの教えは、40年を経ても、大きな現代的意味を持ち続けています。実際、信教の自由は、けっして現実にどこでも保障されているとはいえません。ある場合には、信教の自由が、宗教的な理由や、イデオロギー上の理由で否定されています。またある場合には、信教の自由が、法律上は認められていても、政治権力によって、あるいは、もっと陰湿なしかたで、不可知論や相対主義の文化の支配によって、事実上制限されています。
 すべての人が、自分の存在のうちに刻み込まれた、宗教的な召命を完全に実現することができるように、祈りましょう。マリアの助けによって、わたしたちが、おとめの胎に宿られた、ベツレヘムの幼子のみ顔のうちに、神であるあがない主を認めることができますように。このあがない主こそ、世に来て、真の意味での神のみ顔をわたしたちに示してくださるかたです。

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