教皇ベネディクト十六世の29回目の一般謁見演説 詩編138

12月7日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の29回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4火曜日の晩の祈りで用いられる、詩編138(朗読箇所は詩編138・ […]

12月7日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の29回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4火曜日の晩の祈りで用いられる、詩編138(朗読箇所は詩編138・1-4、8)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見には20,000名の信者が参加しました。
謁見の最後に、イタリア語で行われた祝福の中で、教皇は、教皇庁聖職者省が主催した会議の参加者に向けて、次のように述べました。「イタリア語を話す巡礼者の皆様に心からのごあいさつを申し上げます。特に、聖職者省が主催した、第二バチカン公会議『司祭の役務と生活に関する教令』発布40周年記念会議の参加者の皆様と、同行された(聖職者省長官)ダリオ・カストゥリリョン・オヨス枢機卿に、ごあいさつ申し上げます。親愛なる兄弟の皆様。この『司祭の役務と生活に関する教令』という公会議文書は、教会生活の中で根本的に重要な段階を築きました。すなわち、それは役務としての祭司職の本性と特徴を考察しているからです。この役務としての祭司職が、司祭を、ご自身の民の頭であり牧者であるイエス・キリストと似た者に造り変えます。イエス・キリストの姿に倣い、またイエス・キリストに仕えながら、司祭は、神の栄光と霊魂の救いのために、その生涯をささげなければなりません」。


1 今朗読された、詩編138は、感謝の賛歌です。おそらくダビデ以降の時代に書かれたものだと思われますが、ユダヤ教の伝統ではダビデの詩とされています。この詩編は、詩編作者個人の歌で始まります。詩編作者は、神殿に集まった会衆の中で声を上げます。あるいは、詩編作者は、少なくとも、シオンの聖所との関連を述べているのだと思います。シオンの聖所は、主が現存する場であり、主が信じる民と出会う場だからです。
 実際、詩編作者は、エルサレムの「聖なる神殿に向かってひれ伏し」ます(2節参照)。この神殿において、詩編作者は神の御前で歌います。神は、天使の群れとともに天におられるかたですが、地上の神殿の場で耳を傾けてくださるかたでもあるからです(1節参照)。
 詩編作者は、すべての確信と希望の基(もとい)である、主の「御名」と、主のまことといつくしみの力に信頼しています。主の「御名」は、主が現実に生きて、わざを行われることを表し、主のまことといつくしみは、主がその民と結んだ契約のしるしだからです。(2節参照)。

2 それから、少しの間、過去の苦しみの日々が顧みられます。そのとき、神の声は、信じる者の悩みの叫びに答えます。神は、うちひしがれた魂を元気づけます(3節参照)。ヘブライ語の原文は、主が、文字通りの意味で、苦難のうちにある正しい人の「魂の力を奮い立たせる」と述べています。それはあたかも、一陣の突風が、ためらいや恐れを吹き飛ばし、新たに生きる力を与え、勇気と信頼を強めてくれるかのようです。
 このおそらく個人的な前置きの後に、詩編作者は世界を見渡し、自分のあかしが全地に及ぶかのように考えます。「地上の王は皆」、すなわち、世界中が声を合わせて、ユダヤ人の詩編作者とともに、主の偉大さと、すべてに及ぶ力をほめたたえます(4-6節参照)。

3 すべての民がともにささげる、この賛美の内容の内に、わたしたちはすでに、将来の異教徒の教会、すなわち将来の普遍教会を認めることができます。この賛美は、まず、主の「栄光」と「主の道」について語ります(5節参照)。主の栄光と、主の道とは、神の救いの計画と、神の啓示にほかなりません。こうして人は、神がたしかに「高くいまし」、すべてのものを超えるかたでありながら、いつくしみをもって「低くされている者を見ておられる」こと、また、傲慢な者から目をそむけることを知ります。目をそむけるとは、彼らを拒み、裁くという意味です(6節参照)。
 それは、イザヤがこう告げた通りです。「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられるかたがこういわれる。わたしは、高く、聖なるところに住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人とともにあり、へりくだる霊の人にいのちを得させ、打ち砕かれた心の人にいのちを得させる」(イザヤ57・15)。ですから、神は、弱い人、打ちひしがれた人、最底辺にいる人とともにいて、彼らを守ることを選ばれます。このことがすべての王に告げられます。それは、彼らが国を治めるうえで、どのような選択を行うべきかを悟るためです。もちろん、このことは、王やすべての為政者だけでなく、わたしたち皆にも告げられています。わたしたちもまた、どのような選択をしなければならないかを知らなければならないからです。すなわち、わたしたちも、へりくだる人、最底辺にいる人、貧しい人、弱い人の側に立たなければなりません。

4 この全世界の国々の指導者に向けた呼びかけは、当時の諸国の指導者にだけでなく、すべての時代の指導者に語られたものです。この呼びかけの後、詩編作者は再び個人的な賛美をささげます(詩編138・7-8参照)。自分のこれからの人生に目を向けながら、詩編作者は、今後の人生において自分を待ち受ける苦難のためにも、神の助けを願い求めます。
 そこでは、一言で「敵の怒り」(7節)と述べられています。「敵の怒り」は、正しい人が歴史の旅路で出会う、すべての敵意を表します。けれども、正しい人は、主がけっして自分を見捨てることなく、手を差し伸べて自分を支え、導いてくださることを知っています。それゆえ、詩編は終わりに、神のとこしえのいつくしみへの信頼を、もう一度、熱烈なしかたで告白します。「御手のわざをどうか放さないでください」。御手のわざとは、神が造られたもののことです(8節)。そして、このような信頼をもって、すなわち、神への揺るぐことのない信頼をもって、わたしたちも生きていかなければなりません。
 わたしたちは固く信頼すべきです。わたしたちを待ち受ける苦難がどれほど大きく、また激しいものであっても、神がわたしたちを見捨てることはありません。主の御手がわたしたちを手放すことはありません。わたしたちを造った主の御手は、今は人生の旅路でわたしたちを導いてくださるからです。聖パウロがこう告白している通りです。「あなたがたの中で善いわざを始められたかたが、・・・・そのわざを成し遂げてくださる」(フィリピ1・6)。

5 こうしてわたしたちは、詩編とともに、賛美と感謝と信頼の祈りをささげることができます。この詩編の賛美に続けて、キリスト教の詩編作者である、偉大なシリアのエフレム(4世紀)のあかしに耳を傾けたいと思います。エフレムは、詩的で霊的な香りに満ちた著作を著しました。
 エフレムはその賛歌でこう歌っています。「主よ、わたしたちがどれほど大きな驚きをあなたに感じても、あなたの栄光はわたしたちの舌が語りうることをはるかに超えています」(『処女性についての賛歌』7:L’arpa dello Spirito, Roma, 1999, p. 66)。別の賛歌で、エフレムはこう述べています。「すべてのことを可能にする主が賛美されますように。あなたは全能だからです」(『降誕について賛歌』11:ibid., p. 48)。これが、わたしたちが神に信頼できるもう一つの理由です。神はいつくしみを示す力をもっておられ、また、いつくしみを示すためにその力を用いられます。最後に、この引用をもって終わります。「主の真理を悟るすべての者よ、主をたたえよ」(『信仰についての賛歌』14:ibid., p. 27)。

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