教皇ベネディクト十六世の30回目の一般謁見演説 詩編139(前半)

12月14日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の30回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4水曜日の晩の祈りで用いられる、詩編139・1-12(朗読箇所は […]

12月14日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の30回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4水曜日の晩の祈りで用いられる、詩編139・1-12(朗読箇所は詩編139・1-3、5-6、11-12)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見には18,000名の信者が参加しました。
12月14日は、スペインの神秘家で司祭教会博士の、十字架の聖ヨハネ(1542-1591年)の記念日でした。謁見の最後に、イタリア語で行われた祝福の中で、教皇は次のように述べました。「親愛なる友人の皆様。今日は十字架の聖ヨハネの記念日です。十字架の聖ヨハネは、イエス・キリストの内に隠された神秘に目を向けるように、わたしたちを招きます。そのために十字架の聖ヨハネは、神を知ることを真に望む者が、なによりも『十字架の闇』に入ることを望まなければならないことを思い起こさせます。このような心をもって、もうすぐやって来る降誕祭を迎える準備をしようではありませんか。皆様がよい待降節を過ごされますように」。


1 わたしたちは晩の祈りの詩編と賛歌の考察を行っています。晩の祈りで二つに分けて唱えられる詩編139は、澄んだ美しさをもち、深い感動を与えてくれる、知恵に満ちた賛歌です。今日わたしたちが取り上げるのは、その前半です(1-12節参照)。この前半部は、二つの段落から成り、それぞれ、神がすべてを知っておられることと(1-6節参照)、神があらゆる空間と時間におられること(7-12節参照)をたたえます。
 この詩編で力強いたとえと表現が用いられるのは、造り主を賛美するためです。5世紀のキリスト教著作家のキュロスのテオドレトスは、こう述べています。「創造されたわざがかくも偉大であるなら、それを造られたかたはどれほど偉大でなければならないだろうか」(『摂理についての第四講話』:Collana di Testi Patristici, LXXV, Roma, 1988, p. 115)。詩編作者の考察は、なによりも、すべてを超える神の神秘を究めることをめざしています。しかしながら、この神は、同時にわたしたちの近くにおられるかたなのです。
 
2 詩編が述べるメッセージの中心ははっきりしています。すなわち、神はすべてを知っておられること、また、神はその被造物とともにおられ、神から逃れることはできないということです。神がともにおられるのは、圧力をかけたり、監視したりするためではありません。もちろん、悪を目にしたときは、神は厳しいまなざしを向けます。神は、悪に対して黙っていないからです。
 にもかかわらず、根本的なのは、神は、ともにいることによって、救いをもたらすということです。神の現存は、ありとあらゆるもの、また、歴史全体を包むことができるからです。このような霊的な背景にもとづいて、聖パウロは、アテネのアレオパゴス(町の評議所)で、ギリシアの詩人のことばを引用しました。「われらは神の中に生き、動き、存在する」(使徒言行録17・28)。

3 最初の段落(詩編139・1-6参照)は、神がすべてを知っておられることをたたえます。実際、「究める」、「知る」、「悟る」、「見分ける」、「通じている」といった、知ることを意味する動詞が繰り返して用いられます。ご存じの通り、聖書において、知るということは、たんに知的な意味で学習したり理解することだけではありません。知るとは、ある意味で、知る者と知られる者が交わることです。だから、主は、わたしたちの思いと行いにおいて、わたしたちのすぐ近くにおられるのです。
 詩編の二番目の段落は、神があらゆるところにおられることについて述べます(7-12節参照)。ここでは、神の現存から逃れようとしても無駄であることが、生き生きとしたしかたで示されます。人は神から逃れて、あらゆる場所に行こうとします。まず、垂直方向に「天と陰府(よみ)」(8節参照)です。次いで、水平方向に、曙(あけぼの)――つまり東――から、「海のかなた」――「海」は地中海なので、「海のかなた」とは西を表します――へ向かいます(9節参照)。このような空間のどこにいても、また、そのどこに隠れていようとも、神はたしかにそこにおられます。
 詩編作者はまた、わたしたちを包むもう一つの現実である、時間について述べます。時間は、夜と光、闇と昼ということばで象徴的に表されます(11-12節参照)。進むことも、ものを見ることもできないような暗闇の中でさえも、存在と時間の主であるかたは、そのまなざしをもって見通し、また、その姿を現します。主はいつもその御手をもってわたしたちを捉え、わたしたちの地上での歩みを導こうと望みます(10節参照)。ですから、主は、恐れを抱かせる裁判官としてではなく、支え、解放してくださるかたとして、そばにいてくださるのです。
 こうしてわたしたちは、この詩編が最終的に述べようとしている、いちばん大事な内容を理解することができます。この詩編が述べようとしているのは、この確信です。すなわち、神はいつもわたしたちとともにいてくださるということです。わたしたちの人生がどんな暗闇にあっても、神がわたしたちを見捨てることはありません。いかなる困難に直面したときも、神はわたしたちとともにおられます。そして、最終的な夜、つまり、一緒にいてくれる人が一人もいない、徹底的な孤独をわたしたちが味わう、死の夜にも、主がわたしたちを見捨てることはありません。この死の夜の徹底的な孤独の最中にも、主はわたしたちとともにいてくださいます。だからわたしたちキリスト信者は、確信をもってこういうことができるのです。すなわち、わたしたちは独りきりではありません。神のいつくしみが、いつもわたしたちとともにあるからです。

4 初めにわたしたちは、キリスト教著作家のキュロスのテオドレトスのことばを引用しました。終わりに、わたしたちはもう一度、テオドレトスの『神の摂理についての第四講話』に耳を傾けたいと思います。神の摂理こそ、この詩編が最終的に述べているテーマだからです。テオドレトスは6節について考察します。詩編作者がこう高らかにいっているところです。「その驚くべき知識はわたしを超え、あまりに高くて到達できない」。このことばを注解するとき、テオドレトスは、自分の良心と、自分自身の経験を内面から考察します。テオドレトスは述べています。「外面的な喧騒から遠ざかることによって、自分自身を顧み、自分の内面を見つめながら、わたしは自分の本性についての観想に専念することを望んだ。・・・・自分の本性について考察し、死すべき本性と不滅の本性の調和について考えたとき、わたしはその驚くべきさまに圧倒された。そして、わたしはこの神秘を観想しつくすことができなかったので、自分の限界を認めた。そればかりか、わたしは造り主ご自身がもっておられる知識が勝利を収めたことをたたえ、造り主に向かって賛美の歌を歌うために、高らかにこう叫ぶ。『その驚くべき知識はわたしを超え、あまりに高くて到達できない』」(Collana di Testi Patristici, LXXV, Roma, 1988, pp. 116. 117)。

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