教皇ベネディクト十六世の2006年月1月8日の「お告げの祈り」のことば 主の洗礼

教皇ベネディクト十六世は、1月8日(日)、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
1月8日は、主の洗礼の祝日でした(今年、日本では、1月6日の主の公現の祭日を日曜日の1月8日に行い、主の洗礼は1月9日に記念しています)。教皇ベネディクト十六世は、この日、午前10時からシスティーナ礼拝堂でささげられたミサの中で、10名のイタリア人の新生児(男子5名、女子5名)に洗礼を授けました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 主の公現の祭日に続いて、今日の日曜日に、わたしたちは主の洗礼の祝日を祝います。主の洗礼の祝日をもって、降誕節は終わります。今日、わたしたちは、およそ30歳のときに、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたイエスの姿を観想します。この洗礼は、悔い改めの洗礼でした。悔い改めの洗礼は、水のしるしを用いて、心と生活の浄めを表しました。
 「洗礼者」――すなわち洗礼を授ける者――と呼ばれたヨハネは、イスラエルに向かってこの悔い改めの洗礼を宣べ伝えて、近づいているメシアの到来に備えさせました。洗礼者ヨハネは、すべての人に向かって、こう述べました。すなわち、自分よりも優れたかたが、後から来られる。そして、このかたは、水で洗礼を授けるのでなく、聖霊で洗礼をお授けになると(マルコ1・7-8参照)。イエスがヨルダン川で洗礼を受けられると、聖霊が鳩の姿で降って、イエスの上にとどまりました。すると、洗礼者ヨハネは、イエスがキリスト、すなわち、世の罪を除くために来られた「神の小羊」だと認めました(ヨハネ1・29参照)。
 それゆえ、ヨルダン川での洗礼は、同時に「公現」、すなわち、メシアである主と、そのあがないのわざを現す出来事でもあります。このあがないのわざは、もう一つの「洗礼」、すなわち、主の死と復活による洗礼で頂点に達します。この主の死と復活が、神のあわれみの火によって世を浄めるからです(ルカ12・49-50参照)。
 今日の主の洗礼の祝日に、教皇ヨハネ・パウロ二世はいつも、何人かの子どもに洗礼を授けました。わたしも午前中に、初めて、システィーナ礼拝堂で10人の新生児に洗礼を授けることができたことをうれしく思います。この喜びをもって、わたしはあらためて、洗礼を受けた幼子と、そのご家族、そして代父母のかたがたにごあいさつ申し上げます。
 幼児洗礼は、人がキリストによって新たに生まれ変わって、神のいのちにあずかるという神秘を表し、実現します。信者の両親は、自分の子どもを洗礼盤に連れて来ます。洗礼盤は、教会の「胎」を象徴しています。この洗礼盤の聖なる水から、神の子が生まれます。新生児に与えられたこのたまものを、この新生児は、大人になったときに、自由と責任をもって受け入れなければなりません。つまり、彼らは大きくなって、後から堅信の秘跡を受けることになります。まさしくこの堅信の秘跡が、洗礼を堅固なものとし、また、彼らの上に聖霊による「霊印」を記すのです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。今日の祝日が、すべてのキリスト信者にとって、自分たちが洗礼を受けた喜びとすばらしさを再発見するためのよい機会となりますように。洗礼の恵みを、信仰をもって体験するなら、洗礼は常に生きた現実となります。洗礼は、ずっとわたしたちを造り変え続けて、わたしたちを新しい人とし、わたしたちの思いと行いを聖なるものとします。さらに洗礼は、あらゆる教派のキリスト者を一致させます。洗礼を受けている限り、わたしたちは皆、わたしたちの師であり主である、キリスト・イエスにおいて、神の子だからです。おとめマリアが、わたしたちに、洗礼の意味をいっそう深く理解し、ふさわしい生活を通して、この洗礼の意味をあかししていくことができる恵みを与えてくださいますように。

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