教皇ベネディクト十六世の34回目の一般謁見演説 詩編144(前半)

1月11日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の34回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4木曜日の晩の祈りで用いられる、詩編144の前半(朗読箇所は詩編1 […]

1月11日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の34回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4木曜日の晩の祈りで用いられる、詩編144の前半(朗読箇所は詩編144・1-4)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見には、日本からの巡礼者をはじめ、8,000人の信者が参加しました。
この日の一般謁見の後、教皇は、2004年9月にロシアの北オセチア共和国のベスランの学校で起こったテロに遭った29人の子どもと謁見しました。子どもたちは、一般謁見に参加した後、パウロ六世ホールに隣接した部屋で、一人ひとり教皇の謁見を受けました。2004年9月1日から3日に起こった、チェチェン共和国独立派を中心とする武装集団によるベスラン学校占拠事件では、186人の子どもを含む331人が犠牲となりました。今回、教皇の謁見を受けた子どもたちは、学校占拠事件の際に支援部隊を派遣した、イタリアの治安当局の招きで、イタリアを訪れたものです。子どもたちは一週間、ローマ、ミラノ、ヴェネツィアを回りました。


1 晩の祈りで用いられる詩編を旅するわたしたちが、今日読むのは、詩編144という、王が歌う賛歌です。今日、読まれたのはその前半です。教会の祈りはこの詩編を二つに分けて唱えています。
 詩編の前半(1-8節参照)には、この詩編が書かれた際に用いられた、はっきりとした文学的特徴が示されています。すなわち、詩編作者は、他の詩編のことばを引用しながら、新しい賛歌と祈りを述べています。
 この詩編は後の時代に書かれたものなので、ここでたたえられている王は、もはやダビデの支配に見られたような特徴をもっていません。ユダ王国の支配は、紀元前6世紀のバビロン捕囚によって終わったからです。その代わり、王は、メシアに備わる、輝かしい栄光を帯びた姿で描かれます。メシアの勝利は、軍事的勝利でも、政治的な勝利でもなく、悪に対する解放の到来を意味します。ヘブライ語で「油注がれた者」を表す「メシア」は、優れた意味での「メシア」、すなわち救い主としての「メシア」に代わります。この救い主としての「メシア」は、キリスト教の文書で、イエス・キリストという顔をもつかたとして述べられます。イエス・キリストは、「アブラハムの子ダビデの子」(マタイ1・1)だからです。

2 詩編は祝福で始まります。この祝福は、主への賛美の叫びです。主は、救い主を表す称号による、小さな連願によってたたえられます。すなわち、主は確かな揺るぎない岩、いつくしみ深い恵み、守りの砦(とりで)、救い、悪の攻撃を退ける盾(たて)です(詩編144・1-2参照)。戦いの神というイメージも見られます。神は、信じる者に戦うすべを教えます。こうして信じる者は、自分たちを囲む敵、すなわち世の闇の力に立ち向かうことができるようになります。
 詩編作者は、王の威厳を備えているにもかかわらず、全能の主を前にして、自分が弱く無力であることを感じます。そこで詩編作者は、自分がとるに足らないものであることを告白します。この告白は、すでに述べたように、詩編8と詩編39のことばを用いて述べられます。彼は「息にも似たもの」、「消え去る影」のように、変わりやすく、過ぎ行く時の流れに流されています。それは、被造物に見られる限界に基づくものです(詩編144・5参照)。

3 そこから問いが生まれます。なにゆえ神は、このみじめで弱い被造物に心をとめるのだろうか。この問い(3節参照)に対して、神は大いなる顕現、すなわち、いわゆる「神の現れ」をもって答えます。この「神の現れ」には、宇宙のさまざまな要素と、歴史的出来事が伴います。これらのものは、すべてのものを超えた、存在と宇宙と歴史の最高の王をたたえます。
 そこで、火山を爆発させて煙を吐く山や(5節参照)、悪を行う者に放たれる矢のように飛び交う稲妻や(6節参照)、「大水」が語られるのです。「大水」は、混沌(カオス)の象徴です。神の御手の力は、この「大水」から王を救います(7節参照)。これらのものの背後にあるのは、「むなしいことを語り」、「彼らの右の手は欺きを行う」異邦人の敵です(7-8節参照)。これらのことばは、ヘブライ語的ないいかたを用いて、偶像崇拝と、道徳違反、また、神と神を信じる者に真の意味で逆らう悪を、具体的に表現したものです。

4 わたしたちは、今、詩編作者が自分のとるに足らないことを告白したところで、考察を中断して、オリゲネスのことばに耳を傾けたいと思います。今読んだ箇所についてのオリゲネスの注解は、聖ヒエロニモによるラテン語訳で伝えられています。「詩編作者は、肉体と人間という身分の弱さを述べています」。人間の身分を考えるなら、人間は無に等しいものです。「なんという空しさ、すべては空しい」(コヘレト1・2)とコヘレトの言葉は述べています。再び、驚きと感謝をもって、問いが生れます。「『主よ、人間とは何ものなのでしょう、あなたがこれに親しまれるとは』。・・・・自分の造り主を知ることができたことは、人間にとって幸いです。わたしたちは、造り主を知ることによって、獣や他の生き物と区別されるからです。わたしたちは、自分たちに造り主がいることを知っていますが、獣や他の生き物はそれを知りません」。
 このオリゲネスのことばを少し考えてみるのは、意味のあることです。オリゲネスは、人間と他の生き物の根本的な違いは、人間が自分の造り主である神を知ることができることにあると考えます。すなわち、人間は真理を受け入れることができます。この知識から、わたしたちの神との関係と友愛が生れます。現代にあって、ほかの知識とともに、神を忘れないでいることが大切です。わたしたちは、これまでに実にたくさんの知識を獲得してきました。けれども、もしも根本的な知識が欠けているならば、すなわち、それこそがすべてのものに意味と方向づけを与えてくれる根本的な知識が欠けているならば、つまり、わたしたちが造り主である神を知らないならば、このような知識は問題を生むことになります。さらにいえば、それは危険なものとなります。
 オリゲネスに戻りましょう。オリゲネスはこう述べています。「主よ、あなたが人間をご自身で肩に担いでくださらなければ、あなたはこの人間のみじめさを救うことができません。『主よ、天を傾けて降ってください』。あなたが肩に担いでくださらなければ、倒れた羊は自分で立ち上がることができません。・・・・このことばは、御子に向けて述べられたものです。『主よ、天を傾けて降ってください』。・・・・あなたは降って来てくださいました。あなたは天を傾け、天の高みから御手を差し伸べてくださいました。そして、人間の肉をその肩に担いでくださいました。こうして多くの人があなたを信じました」(オリゲネス『詩編講話』:74 omelie sul libro dei Salmi, Milano, 1993, pp. 512-515)。
 わたしたちキリスト信者にとって、神は、キリスト教以前の哲学と違って、もはや理論ではなく、現実です。神は「天を傾けて降ってくださ」ったからです。天そのものである神が、わたしたちの中に降って来られました。オリゲネスが、羊飼いが羊を肩に担ぐという、見失った羊のたとえを、神の受肉を表すたとえと考えたのは、もっともなことです。もしも受肉によって、神が降って来て、わたしたちの肉を肩に担いでくださったのなら、神はわたしたち自身を肩に担いでくださったのです。このようにして、神についての知識は現実となります。それは神との友愛となり、神との交わりとなるのです。わたしたちは神に感謝します。神は「天を傾けて降」り、わたしたちの肉を肩に担ぎ、わたしたちが生涯歩む道で、わたしたちを導いてくださるからです。
 わたしたちが弱く、神の栄光から遠いものであることを見いだすことから始まった詩編は、神のわざへの大きな驚きをもって結ばれます。神は「インマヌエル」、すなわち、わたしたちとともにおられます。この神は、キリスト教にとって、イエス・キリストのいつくしみ深い顔をもつ神です。イエス・キリストは、人となられた神、わたしたちの一人となられた神だからです。

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