教皇ベネディクト十六世の2006年月1月15日の「お告げの祈り」のことば 弟子の召命

教皇ベネディクト十六世は、1月15日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。 冒頭 […]

教皇ベネディクト十六世は、1月15日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
冒頭で、「先週の日曜日の主の洗礼の祝日」とあるのは、今年、ローマで主の公現の祭日は1月6日(金)に、主の洗礼の祝日は8日(日)に記念されているためです。日本では今年、主の公現の祭日を日曜の1月8日に行い、主の洗礼は翌1月9日に記念しています。
1月15日は、世界難民移住移動者の日でした(日本では、世界難民移住移動者の日を9月の第4日曜日――2006年は9月24日――に行っています)。2006年の世界難民移住移動者の日のテーマは「時のしるしとしての移住者」です。教皇は、「お告げの祈り」の後に、イタリア語で次のように述べました。「今日は世界難民移住移動者の日です。現代世界において、移住者はきわめて広く見られる現象です。移住者は『時のしるし』です。移住という現象はさまざまな形で現れます。自発的に行われる移住もあれば、強制的な移住もあります。合法的な移住もあれば、非合法な移住もあります。就学目的の移住もあれば、労働目的の移住もあります。民族や文化の違いを尊重することが強調される一方で、移住者の受け入れや統合に関するさまざまな困難も存在します。教会は、この時のしるしにおける積極的な点を受け入れるように招きます。そのためにわたしたちは、あらゆる種類の差別や不正、人間の人格の軽視に打ち勝たなければなりません。すべての人間は神の像だからです」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 先週の日曜日の主の洗礼の祝日から、典礼暦年の「年間」が始まりました。「年間」という季節はすばらしい季節です。なぜならこの季節はわたしたちに、日常生活を聖性への道として生きるように招くからです。聖性への道とは、イエスへの信仰の道であり、イエスとの友愛の道です。わたしたちはイエスを、教師、主、道、真理、人間のいのちとして、常に発見し、また再発見しなければなりません。
 このことが、今日の典礼の中で読まれたヨハネによる福音書(ヨハネ1・35-42)でわたしたちに示されています。そこでは、イエスと、イエスの弟子となった何人かの人びとの最初の出会いが語られます。この人びとは洗礼者ヨハネの弟子でした。この人びとをイエスのもとに導いたのも、洗礼者ヨハネでした。洗礼者ヨハネは、ヨルダン川での洗礼の後に、イエスが「神の小羊」(ヨハネ1・36)であることをあかししたからです。
 そこで、二人の弟子がメシアに従いました。メシアは彼らに尋ねました。「何を求めているのか」。二人はメシアに尋ねました。「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」。するとイエスはこう答えました。「来なさい。そうすればわかる」。すなわち、イエスは彼らに、自分に従って、自分とともに時を過ごすように招かれたのです。
 二人の弟子は、イエスとすこしの時間を過ごすことによって、強い印象を受けました。それで、二人のうちの一人のアンデレは、すぐに兄弟シモンに会いに行き、シモンにこういいました。「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」。ここで、二つの特別に意味深いことばが用いられています。すなわち、「求める」と「出会う」です。
 わたしたちは、今日読まれた福音の箇所からこの二つの動詞を取り出して、それを新しい年のための根本的な導きとすることができると思います。この新しい年の中で、わたしたちは新たにイエスとともに霊的な旅路を歩みたいと望んでいるからです。この旅路において、わたしたちは、絶えずイエスを求め、イエスと出会う喜びを味わいます。実際、ほんとうの意味での喜びは、イエスと関わることによって与えられます。イエスと関わるとは、いつも思いと心をとぎすますことによって、イエスと出会い、イエスに従い、イエスを知り、イエスを愛することです。
 イエスの弟子であること――キリスト信者にはそれ以外の何もいりません。師であるかたと友であることによって、魂は、暗闇のときにも、どんなにむずかしい試練に遭うときにも、深い平和と落ち着きを与えられます。信仰が暗夜を歩むとき、ともにおられる神を「聞く」ことも「見る」こともできないときがあります。そのようなときも、イエスと友であれば、実際に、けっして何もイエスの愛からわたしたちを引き離すことはできないのです(ローマ8・39参照)。
 キリストは、汲みつくすことのできない真理といのちの源です。キリストを求め、キリストと出会いなさい。新しい年の初めにあたって、神のことばはわたしたちに、あらためて、終わることのない信仰の旅路を歩み始めるよう招きます。「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」。わたしたちもキリストにこう尋ねます。キリストは答えていわれます。「来なさい。そうすればわかる」。
 信じる者は、絶えず探し求め、新たに見いだします。なぜなら、キリストはきのうも今日も、永遠に変わることがないかたですが、わたしたちと世界と歴史は、けっして変わらずにいることがないからです。だから、キリストはわたしたちのところに来て、ご自身との交わりと、その満ち満ちたいのちをわたしたちに与えてくださいます。わたしたちがイエスに従い、イエスの神秘をいっそう深く知る喜びを日々味わうことができるように、おとめマリアが助けてくださるよう、祈りたいと思います。

PAGE TOP