教皇ベネディクト十六世の35回目の一般謁見演説 キリスト教一致祈祷週間にあたって/回勅『神は愛』の発布

1月18日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の35回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、18日から始まったキリスト教一致祈祷週間について解説しました。以下はその全訳です […]

1月18日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の35回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、18日から始まったキリスト教一致祈祷週間について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見には8,000人の信者が参加しました。
キリスト教一致祈祷週間は、1月18日から25日までの8日間行われます。この期間、全世界のキリスト者の一致を求めて祈りがささげられます。今年のキリスト教一致祈祷週間のテーマは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18・20)です。最終日の1月25日(聖パウロの回心の祝日)には、教皇の司式により、サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂で、正教会とプロテスタント教会の代表者とともに晩の祈りが行われる予定です。
演説の終わりに、教皇は、教皇就任後最初の回勅を、キリスト教一致祈祷週間の最終日である1月25日に発布することを発表しました。回勅の標題は、『神は愛(デウス・カリタス・エスト)』です。この標題は、ヨハネの手紙一の4章16節からとられています。教皇が回勅発布を発表すると、会場から大きな拍手が起こりました。
この日の一般謁見の前後には、4つのサーカス団の人びとが芸を披露しました。教皇は終わりにサーカス団員の一人ひとりの手をとって祝福を与えました。


キリスト教一致祈祷週間にあたって
 「また、はっきりいっておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(マタイ18・19)。イエスが弟子たちに述べたこの荘厳な約束が、わたしたちの祈りを支えます。今日、いまや伝統になったキリスト教一致祈祷週間が始まります。キリスト教一致祈祷週間は、キリスト者の共同体の分裂の悲劇について反省するための大切な機会です。それは、イエスご自身とともに、こう祈るための大切な機会でもあります。「すべての人を一つにしてください。そうすれば、世は信じるようになります」(ヨハネ17・21)。わたしたちは、全世界のたくさんの人びとと心を合わせて、この場でもこの祈りをささげます。この「すべての人の一致」のための祈りは、さまざまなしかたで、さまざまな機会に、カトリック、正教会、プロテスタントの信者によって行われます。わたしたちは、唯一の主にして救い主であるイエス・キリストを信じる信仰において結ばれているからです。
 一致のための祈りは、第二バチカン公会議が「エキュメニカル運動の魂」(『エキュメニズムに関する教令』8)と呼んだ、エキュメニカル運動の核心をなすものです。この核心は、公的また私的に行われる祈りと、回心と生活の聖性を含んでいます。このような考えは、エキュメニズムという問題の中心をわたしたちに示します。エキュメニズムは、福音に従って、神に必要で有効な助けを求めながら、神のみ旨を行うことだからです。公会議はそのことを信者にはっきりと示して、こう述べています。「彼らは父とみことばと聖霊との交わりに、より緊密に結ばれれば結ばれるほど、それだけ深く、そしてより容易に相互の兄弟愛を深めることができるのである」(同7)。
 分裂が続いているにもかかわらず、キリスト者を一致させ続けているさまざまな要素が、わたしたちを支えて、ともに神に祈りをささげることを可能にします。このキリストにおける交わりが、エキュメニカル運動全体の支えです。またそれは、神の教会においてすべてのキリスト者が一致することを求めるわたしたちの目標をも示しています。このことが、エキュメニカル運動と、諸宗教や諸思想と対話を行ったり、関係を築くための他の取り組みとの違いです。
 この点についても、第二バチカン公会議の『エキュメニズムに関する教令』の教えは明確にこう述べています。「エキュメニカル運動と呼ばれるこの一致運動には、三位一体の神を奉じ、イエスを主および救い主と認める人びとが参加している」(同1)。さらに、特に今の時期、あるいは聖霊降臨の主日の頃に、全世界でともに祈りをささげることは、すべてのキリスト者の間の完全な交わりを回復するために、わたしたちがともに努力したいという望みも表します。「このような共同の祈りは、確かに一致の恵みを求めるための効果的な手段である」(同8)。
 このことを確認しながら、第二バチカン公会議は、イエスが弟子たちに述べたことばの意味を明快に解き明かします。イエスは弟子たちに、二人が地上で心を一つにして天の父に願い求めるなら、天の父はそれをかなえてくださると約束しました。「なぜなら」、二人または三人がイエスの名によって集まるところには、イエスもその中にいるからです。復活の後、イエスは弟子たちに、自分は「世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28・20)と約束しました。弟子たちの共同体の中にイエスがともにおられること、また、わたしたちが祈るときに、イエスがともにいてくださることが、祈りの効果を保証します。だから、イエスはこう約束されたのです。「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ18・18)。
 しかし、わたしたちは祈り求めることだけで満足してはいけません。わたしたちは、わたしたちの努力を通じて、兄弟であるキリスト者間のエキュメニカルな関係において、新たな状況が生れたことをも、主に感謝しなければなりません。このような兄弟としての関係は、すでに結ばれた連帯のきずなや、交わりの成長、そして、その方法に違いはあるとはいえ、さまざまな対話からもたらされた意見の一致を通じて、あらためて築かれたものです。わたしたちは、神に感謝しなければならないことがたくさんあります。そして、わたしたちには、まだしなければならないこと、求めなければならないことがたくさんあります。だからこそ、神が一致への道のりにおいて、多くの恵みを与えてくださったことを忘れないようにしようではありませんか。それゆえ、わたしたちは神が与えてくださったこれらの恵みに感謝したいと思います。未来はわたしたちの前に開かれています。
 わたしたちが忘れることのできない教皇ヨハネ・パウロ二世は、エキュメニズムのために多くのことを苦労して行いました。ヨハネ・パウロ二世は適切にもこういわれました。「すでに神から受けたと認めること、これが、種々のたまものを受け取る心構えをもたせる条件となります。このたまものが、今もなお、一致というエキュメニカルな務めを成し遂げるために必要とされています」(教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『キリスト者の一致』41)。兄弟姉妹の皆様。ですから、祈り続けようではありませんか。キリスト者の一致の回復という聖なる課題は、わたしたちの人間としてのささやかな力を超えるものであること、そして、最終的に、一致は神の与えるたまものであることに、わたしたちが気づくことができますように。

回勅『神は愛』の発布
 このことに関連して、またこのような気持ちを込めて、来週の水曜日の1月25日の、聖パウロの回心の祝日に、わたしは教皇ヨハネ・パウロ二世が示した模範に倣って、サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂に赴き、正教会とプロテスタント教会の兄弟とともに祈ります。それは、主がわたしたちに与えてくださった恵みに感謝の祈りをささげ、また、主が一致への道を歩むわたしたちを導いてくださるように祈るためです。
 さらに、同じ1月25日に、わたしの最初の回勅がついに発布されます。回勅の題は、すでにご存知のように、『デウス・カリタス・エスト』すなわち『神は愛』です。このテーマは直接にはエキュメニズムに関係していませんが、テーマの背景また基盤はエキュメニズムだといえます。なぜなら、神とわたしたちの愛は、キリスト者が一致するための条件だからです。この二つは、世界平和の条件でもあります。
 この回勅で、わたしは、愛という概念のもつさまざまな側面を示したいと思いました。今日、ふだんこのことばを用いる場合、「愛(アモール)」は、キリスト信者が「愛のわざ(カリタス)」というときに考えている意味から非常にかけ離れた意味を表すことが多いように思われます。わたしは、愛がさまざまな側面をもった一つの動きであることを示したいと思いました。
 「性愛(エロース)」は、男と女が与え合う愛です。この「エロース」は、造り主のいつくしみという同じ源に由来すると同時に、他者のために自己を犠牲にする愛を可能にするものでもあります。男と女の二人が、真の意味で互いに愛し合うことによって、また、人が自分自身とその快楽や幸せを求めず、何よりも互いに相手のためになることを求めることによって、「エロース」は「アガペー(愛)」に造り変えられます。こうして「エロース」は、浄めと深化の道を歩みながら、愛のわざへと造り変えられます。人は、自分の家庭から、社会という大きな家族へ、教会という家族へ、世界という家族へと開かれたものとなります。
 わたしはまた、神がわたしたちに行った、完全な意味で人格的なわざは、独自の愛のわざであることを示そうとしました。この愛のわざは、教会や組織が行うわざとしても現されなければなりません。教会は、神の愛の表現です。すなわち、それは、神が人間という被造物に示した愛の表現です。このことが本当なら、わたしたちが信じるという根本的な行為が、教会のわざを生み出すということも、また本当だといわなければなりません。信じるという行為は、教会を作り、教会を一致させるとともに、永遠のいのちへの希望と、神が世界の中にともにいてくださることへの希望を、わたしたちに与えるからです。実際、教会は、教会として、また共同体として、組織の形で愛のわざを行わなければなりません。
 また、このような「愛のわざ(カリタス)」は、他の慈善団体のような、たんなる団体組織ではありません。それは、神に対する深い意味での人格的な愛からかならず現れてくるものです。神はわたしたちを造り、わたしたちの心を愛へと駆り立てるからです。この愛は、愛である神の映しです。神はわたしたちを、ご自分にかたどって造られたからです。
 回勅のテキストを完成し、翻訳するまでに時間を要しました。今、この回勅が、ちょうどわたしたちがキリスト者の一致を祈るための日に発布されることは、神の摂理によるもののように思われます。この回勅が、わたしたちのキリスト信者としての生活を照らし、その助けとなることを願います。

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