教皇ベネディクト十六世の37回目の一般謁見演説 詩編145(前半)

2月1日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の37回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4金曜日の晩の祈りで用いられる、詩編145の前半(朗読箇所は詩編14 […]

2月1日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の37回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4金曜日の晩の祈りで用いられる、詩編145の前半(朗読箇所は詩編145・1-13)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見には8,000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

1 わたしたちは詩編145の祈りを唱えました。詩編145は、主への喜びに満ちた賛美の祈りです。主は、そのすべての被造物を心にかける、愛深く優しい王としてたたえられます。教会の祈りはこの賛歌を二つの部分に分けて唱えます。この二つの部分は、それぞれ同じ詩編の二つの詩的また霊的な部分に対応します。では、その前半を見てみることにしましょう。それは1-13節に相当します。
 詩編は主をあがめます。この主は、「王」として呼び求められ、また述べられます(詩編145・1参照)。「王」は、神を表すことばとして、他の詩編の賛歌の中でも中心を占めます(詩編47、93、96-99参照)。さらに、この賛歌の霊的な中核をなしているのは、神の王権に対する深く激しい賛美です。詩編の中では、4回――あたかも存在と歴史の4つの枢軸を示すかのように――ヘブライ語の「マルクート」すなわち「主権」ということばが繰り返されます(詩編145・11-13節参照)。
 ご存知のように、こうした王の支配という象徴的表現は、神の救いの計画を表します。キリストの説教の中心となっていたのも、王の支配という象徴的表現でした。神は人間の歴史に無関心なかたではありません。それどころか、神はわたしたちとともに、またわたしたちのために、和解と平和の計画を実現することを望まれます。全人類も、神の救いのみ旨に従って、この計画を実現するように招かれています。この救いのみ旨は、すべての「人びと」、「すべての世代」、「すべての時代」に及びます。神のわざは世界に及びます。神は世から悪を取り除き、主の「栄光」を王座に着かせます。主の「栄光」とは、主が自ら、力をもって、すべてを超えたしかたで現れることです。

2 この詩編の真ん中で――まさにそれはこの詩編の真ん中で行われます――、詩編作者は賛美の祈りをささげます。詩編作者はすべての信じる者を代表して語ります。彼は今日でも、わたしたちすべてを代表して語ろうとするでしょう。実際、聖書の最高の祈りは、救いのわざへの賛美です。この救いのわざは、被造物に対する主の愛を現すからです。詩編は神の「み名」を続けてたたえます。「み名」とは神の存在のことです(1-2節参照)。神の「み名」は、神が歴史の中で行うわざの中で示されます。だからこそ、神の「みわざ」、「大きなみわざ」、「驚くべきみわざ」、「み力」、「威光」、また、神が「公正」で、「忍耐強く」、「憐れみ深く」、「恵みに富み」、「いつくしみに満ちている」ことが語られます。
 これはいわば連願の祈りです。この祈りは、全被造物を完全な救いへと導くために、神が転変する人間の世界に入ってこられたことを告げます。わたしたちは闇の力に任されているのでも、自らの自由のうちに孤独でいるのでもありません。わたしたちは、力と愛に満ちた主のわざに委ねられています。主はわたしたちのために計画、すなわち「主権」を打ち立てられるからです(11節参照)。

3 この「主権」は、権力や支配、勝利や抑圧を意味するものではありません。残念ながら、地上の支配では、そのようなことがしばしば起こります。けれどもここでの「主権」は、憐れみ、優しさ、いつくしみ、恵み、公正が示される場です。主への賛美を述べた箇所の中で、何度も繰り返していわれた通りです。
 8節では、このような神の姿がまとめて述べられます。主は「忍耐強く、いつくしみに満ちておられます」。このことばは、神がシナイ山でご自分を示したことばを思い起こさせます。主はこういわれました。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、いつくしみとまことに満ちる」(出エジプト34・6)。これは、使徒聖ヨハネが行った神への信仰告白を準備するものです。ヨハネは単純に、「神は愛である」(Deus caritas est)といいました(一ヨハネ4・8、16参照)。

4 このすばらしいことばは、神が「忍耐強く、いつくしみに満ち」、常に進んでゆるし、助けてくださるかたであることを、わたしたちに示しています。このことばについての考察に加えて、わたしたちは9節の美しいことばにも目を向けたいと思います。「主はすべてのものに恵みを与え、造られたすべてのものを憐れんでくださいます」。これは、わたしたちがよく考えるべきことばです。それは、慰めに満ちた、わたしたちの人生にかならず役立つことばです。このことばに関連して、聖ペトロ・クリソロゴ(380年頃―450年頃)は、『断食についての第二の講話』の中でこう述べています。「『主のみわざは偉大である』。しかし、わたしたちが被造物の偉大さのうちに認めるこの偉大さ、このみ力より大きいのは、憐れみの大きさです。実際、預言者はこういっています。『神のみわざは偉大である』。けれども別の箇所で、預言者はこう付け加えます。『神の憐れみは、そのすべてのみわざよりも偉大である』。兄弟の皆さん。憐れみは天と地に満ちています。・・・・だから、キリストの大きく、寛大で、比類のない憐れみは、すべての人の世にゆるしのための休戦を定めました。キリストは、あらゆる裁きを一日だけ猶予してくださるからです。・・・・だから、預言者は、義そのものを信じるのでなく、憐れみにまったき信頼を置いたのです。『神よ、わたしを憐れんでください、御いつくしみをもって。深い御憐れみをもって背きの罪をぬぐってください』(詩編51・3)」(『断食についての第二の講話』42・4-5:Sermoni 1-62bis, Scrittori dell’Area Santambrosiana, 1, Milano-Roma, 1996, pp. 299. 301)。わたしたちも主にいいます。「わたしの神よ、わたしを憐れんでください。あなたの憐れみは大いなるものだからです」。

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