教皇ベネディクト十六世の2006年2月12日の「お告げの祈り」のことば 世界病者の日にあたって

教皇ベネディクト十六世は、2月12日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。 「お […]

教皇ベネディクト十六世は、2月12日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
「お告げの祈り」の後、最初にイタリア語で行われた祝福のあいさつの中で、教皇は、10日(金)からイタリア・トリノで開幕した第20回冬季オリンピックについて、次のように述べました。「2日前、第20回冬季オリンピック大会が開幕しました。オリンピックの主催者、国際オリンピック委員会の職員の皆様、そして世界中から来られた競技者の皆様に、心からごあいさつ申し上げたいと思います。このすばらしいスポーツ競技の大会が、忠実と喜びと友愛というオリンピック精神に基づいて、諸民族の平和に貢献するものとなりますように祈ります」。
また、同じイタリア語で行われた祝福の中で、教皇は1931年のバチカン放送局開局から75周年を記念して、次のように述べました。「今日2月12日は、バチカン放送局の開局と、教皇ピオ十一世が世界に向けて最初にラジオ・メッセージを発した75周年記念日です。教皇ピオ十一世は、科学者グリエルモ・マルコーニにバチカン・ラジオ局の建設を依頼しました。ラジオ、そして後にテレビを通じて、福音のメッセージと教皇のことばはすべての民族により速やかに、またより容易に伝えられるようになりました」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 昨日2月11日のルルドの聖母の記念日に、わたしたちは「世界病者の日」を開催しました。今年、世界病者の日の式典はオーストラリアのアデレードで行われました。この式典と同時に、精神障害というますます切迫したテーマに関する国際会議も開催されました。病気は、人間の置かれた状況の典型的な特徴です。だから病気は具体的な比喩としても用いられます。聖アウグスチヌスが祈りの中で適切にこう述べている通りです。「主よ、あわれみたまえ。ああ、何たることか、見たまえ。わたしは傷を隠さない。あなたは医者で、わたしは病人です。あなたはあわれみ深く、わたしはあわれです」(『告白』10・39〔山田晶訳、『世界の名著14』中央公論社、1968年、366頁〕)。
 キリストは、真の意味で人類の「医者」です。天の父は、人間をいやすためにこの「医者」を世に遣わしました。人間のからだと心には、罪とその結果がしるされているからです。最近の主日のミサの中で、マルコによる福音書が述べているように、イエスはその公生活の初めから、ガリラヤの町から町をめぐりながら、教えを宣べ伝え、病人をいやすために献身しました。
  イエスが病人に示した数え切れないほどの奇跡は、神の国の「福音」をあかししています。今日読まれた福音は、重い皮膚病を患っている人のいやしの話です。福音は、神と人の関係の深さを生き生きと表しています。この深い関係は、次のすばらしい対話の内に要約されています。重い皮膚病を患う人が、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」というと、イエスはこう答えます。「よろしい、清くなれ」。そしてイエスは手で重い皮膚病を患う人に触れて、その人を重い皮膚病から解放します(マルコ1・40-42)。
 この箇所の中に、救いの歴史の全体が凝縮されているのがわかります。イエスは、手を差し伸べて、彼に助けを求めた人の傷ついたからだに触れました。このイエスの行為は、倒れた被造物をいやしたいという神の望みを完全なかたちで表しています。神は、この倒れた被造物に再び「豊かに」(ヨハネ10・10)いのちを与えます。このいのちは、永遠、完全、至福のいのちです。キリストは、神が人類に差し伸べた「手」です。それは、人類を流砂のような病と死から救い出し、神の愛という堅い岩の上に立たせるためです(詩編40・2-3参照)。
 今日、わたしは、特に世界中にいる、病気で苦しむ人と、孤独や貧困や疎外に苦しむ人びとを、「病人の回復」であるマリアの保護に委ねたいと思います。またわたしは何よりも、病院や療養施設で病気の人を介護し、彼らの治療のために献身するすべての人びとにも思いを致します。聖なるおとめの助けにより、適切な保健活動と、具体的な連帯の内に示される兄弟愛を通して、すべての人がからだと心の慰めを見いだすことができますように。

PAGE TOP