教皇ベネディクト十六世の39回目の一般謁見演説 「マリアの賛歌」

2月15日(水)午前10時30分から、教皇ベネディクト十六世の39回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「マリアの賛歌」(ルカ1・46-55)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。 […]

2月15日(水)午前10時30分から、教皇ベネディクト十六世の39回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「マリアの賛歌」(ルカ1・46-55)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
教皇の演説に先立って、システィーナ礼拝堂聖歌隊が「マリアの賛歌」を歌いました。
教皇ベネディクト十六世は、就任以来、教会の祈りの晩の祈りの詩編と賛歌の解説を続けてきましたが、今回の演説をもってこの連続演説は完結します。教会の祈りの詩編と賛歌の解説は、教皇ヨハネ・パウロ二世が2001年4月から開始し、ベネディクト十六世によって引き継がれました。教会の祈りの詩編と賛歌に関する連続演説は、ヨハネ・パウロ二世が行ったものを合わせると全79回で、そのうちベネディクト十六世によるものは35回です。
この日は参加者が多かったため、教皇はまず、サンピエトロ大聖堂で7800人の信者の謁見を受けました。この中には、イタリアの6000人の小中学生のグループと、フランスから来た1800人の「聖ヨハネ会」(1976年創立)の巡礼団が含まれていました。その後、教皇は、パウロ六世ホールで、通常の一般謁見の演説を行いました。パウロ六世ホールでの謁見には9000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 
1 わたしたちは、わたしの敬愛するべき前任者である、忘れることのできない教皇ヨハネ・パウロ二世がちょうど5年前に開始した、長い旅路を終えることになりました。偉大な教皇ヨハネ・パウロ二世は、そのカテケジスの中で、教会の祈りの朝の祈りと晩の祈りの基本的な部分である、一連の詩編と賛歌全体を扱おうと望みました。テキストをめぐる旅路は、賛美と祈願と祈りと観想の花々の咲き乱れる花園をめぐる旅でした。この旅路を終えるにあたって、わたしたちは少しの間、晩の祈り全体をしめくくるにふさわしい賛歌である、「マリアの賛歌(マグニフィカト)」(ルカ1・46-55)について考えてみたいと思います。
 「マリアの賛歌」は、聖書における「貧しい者(アナウィーム)」の霊性を表現しています。「アナウィーム」とは、自分の「貧しさ」を認める、信仰深い者のことです。この人びとが「貧しい」のは、富や権力の偶像に捕われないためばかりではありません。彼らは、深い心のへりくだりのゆえに、すなわち、傲慢への誘惑をもたず、救いをもたらす神の恵みに心を開いているために、「貧しい」のです。今、システィーナ礼拝堂聖歌隊が歌ってくださった「マリアの賛歌」の全体を特徴づけるのは、この「へりくだり」(ギリシア語でタペイノーシス)です。「へりくだり」は、現実に身分が低く、貧しい状況を意味します。

2 「マリアの賛歌」の前半(ルカ1・46-50参照)は、天におられる主へとささげられる、独唱者の歌声のようです。実際、そこでは常に繰り返して、一人称が用いられていることを指摘することができます。「わたしの魂は・・・・、わたしの霊は・・・・、わたしの救い主を・・・・、わたしを幸いな者というでしょう、・・・・わたしに偉大なことをなさいましたから」。それゆえ、この祈りの中心は、神の恵みへの賛美です。神の恵みはマリアの心と生活に入り、マリアを主の母としたからです。わたしたちは、まさにおとめの声が、このように救い主について語るのを耳にしています。救い主はマリアの魂とからだに偉大なことを行われました。
 マリアの賛歌の祈りを深い意味で形づくっているのは、賛美と感謝と喜びです。けれどもマリアは、この自らのあかしを、ひとりで密かに、ただ個人的に行うのではありません。なぜなら、おとめマリアは、自分が人類のために実現しなければならない使命を帯びており、自分の人生は救いの歴史と結ばれているのだということを自覚していたからです。だからマリアはこういうことができるのです。「そのあわれみは世々に限りなく、主を畏れる者に及びます」(50節)。この主への賛美によって、おとめマリアは、マリアの「おことばどおり、この身に成りますように(フィアット)」によってあがなわれたすべての被造物が声を上げることを可能にしました。あがなわれた被造物は、マリアから生まれたイエスの姿のうちに神のあわれみを見いだすからです。
 
3 そこから「マリアの賛歌」の詩的で霊的な後半(51-55節参照)が展開します。後半は合唱の調子で述べられます。あたかも、神の驚くべき選びのわざをたたえるために、信じる者の共同体の声がマリアの歌声に加わったかのようです。ルカによる福音書のギリシア語原文では、七つの動詞が不定過去時制で用いられています。これらの動詞は、主が歴史の中で絶えず行ってきたその他の多くのわざを表します。「主はその腕で力を振るい、・・・・思い上がる者を打ち散らし、・・・・権力ある者をその座から引き降ろし、・・・・身分の低い者を高く上げ、・・・・飢えた人を良い物で満たし、・・・・富める者を空腹のまま追い返され・・・・しもべイスラエルを受け入れます」。
 これらの七つの神のわざのうちに、歴史の主であるかたが何かをするときの「やり方」がはっきりと示されています。すなわち、主はもっとも小さな者の側に立たれるのです。主の計画は、人類のさまざまな出来事から成る不透明な状況の中で、しばしば隠れています。そこでは「思い上がる者」、「権力のある者」、「富める者」が勝利を収めるからです。しかし、主の隠れた力は、ついには、どのような者を神が真に喜ばれるかをかならず明らかにします。すなわちそれは、「主を畏れる者」、つまり神のことばに従う者、「身分の低い者」、「しもべイスラエル」です。「しもべイスラエル」とは、マリアのように、心が清く単純な「貧しい者」から成る、神の民の共同体のことです。イエスはこの「小さな群れ」を、「恐れるな」といって招きました。それは、御父が、この小さな群れに神の国を与えることを望んでいるからです(ルカ12・32参照)。こうして、「マリアの賛歌」は、わたしたちもこの小さな群れに加わるように招きます。それは、真の意味で、心が清く単純で、神を愛する、神の民の一員となるためです。

4 ですから、聖アンブロジオが『ルカ福音書注解』の中でわたしたちに向けて行う招きを、受け入れようではありませんか。この偉大な教会博士はこう述べています。「一人ひとりの人の中でマリアの魂が主をたたえてくださいますように。一人ひとりの人の中でマリアの霊が主を喜びたたえてくださいますように。肉に従えば、イエスの母がただ一人であるなら、信仰に従えば、すべての魂はキリストを生み出します。実際、すべての人は自分の中で神のみことばを受け入れるのです。・・・・マリアの魂は主をあがめ、マリアの霊は神を喜びたたえます。なぜならマリアは、その魂と霊を御父と御子にささげながら、万物を生み出すかたである唯一の神と、万物がそのおかげで存在するかたである唯一の主を、心から愛情をこめて礼拝するからです」(『ルカ福音書注解』2・26-27:Sancti Ambrosii episcopi Mediolanensis opera, XI, Milano-Roma, 1978, p. 169)。
 「マリアの賛歌」についてのこの聖アンブロジオのすばらしい注解の中で、特にいつもわたしの心を動かすのは、この驚くべきことばです。「肉に従えば、イエスの母がただ一人であるなら、信仰に従えば、すべての魂はキリストを生み出します。実際、すべての人は自分の中で神のみことばを受け入れるのです」。このようにして、この聖なる教会博士は、おとめマリア自身が語ったことばを解釈しながら、わたしたちに、わたしたちの魂とわたしたちの生活を主の住まいとしてささげるように招いています。わたしたちは心の中に主を抱いているだけではいけません。わたしたちは、主を世界にもたらさなければなりません。それは、わたしたちもまたキリストを現代に生み出すためです。主に祈り求めましょう。主の助けによって、わたしたちがマリアの霊と魂とともに主をあがめ、あらためてキリストを現代世界にもたらすことができますように。

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