教皇ベネディクト十六世の2006年2月19日の「お告げの祈り」のことば イエスのいやしについて

教皇ベネディクト十六世は、2月19日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった30,000人以上の信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文は […]

教皇ベネディクト十六世は、2月19日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった30,000人以上の信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
「お告げの祈り」の後、最初に英語で行われたあいさつの中で、教皇は、フィリピンのレイテ島で起きた大規模な地滑り災害について、次のように述べました。「特にわたしの心はフィリピンで起きた大規模な地滑りの被災者のかたがたに向かいます。皆様にお願いします。わたしとともに、犠牲者とその愛するご家族、すべての被災者のために祈ってください。悲しみのうちにある家族のかたがたに主の慰めが与えられ、また、救助にあたるかたがたがわたしたちの思いと支援に支えられますように」。
2月17日(金)午前にフィリピンのレイテ島南部のセントバーナード近郊ギンサウゴンで起きた地滑りでは、村全体が地滑りにのみこまれました。19日中に72名の遺体が収容され、現在も救助作業が続いています。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 最近の主日のミサの福音では、キリストが行ったさまざまないやしの物語が語られています。先週の日曜日は、重い皮膚病の人のいやし、今日は、中風の人のいやしの話でした。この中風の人を、4人の男が床に乗せてイエスのところに運びます。イエスは彼らの信仰を見ていわれました。「子よ、あなたの罪はゆるされる」(マルコ2・5)。
 このいやしのわざを通じて、イエスは自分が何よりも霊をいやすことを望んでいることを示しました。中風は、罪のために自由に動くことができず、善への道を歩むことができず、自ら最善を尽くすことができない、すべての人を表すたとえです。実際、霊のうちに巣食った罪は、偽りと怒りとねたみを初めとする罪のひもで人を縛り、少しずつ人を動けなくしてしまいます。
 だからイエスは、律法学者のいる前で、つまずきを引き起こしながら、まずこういったのです。「あなたの罪はゆるされる」。その後初めてイエスは、神が自分に罪をゆるす権威を与えていることを示すために、さらにこういって、中風の人を完全にいやしました。「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(マルコ2・11)。ここでいわれているメッセージは、明らかです。罪によって麻痺した人は、神のあわれみを必要としています。このあわれみを与えるためにキリストは来られました。それは、その人の心がいやされて、人生全体が再び元気を取り戻すためです。
 現代の人間も、さまざまな罪のしるしを身に帯びています。そのために人類は、自らが荘厳な宣言によって示した、友愛と正義と平和という価値を速やかに発展させることができません。なぜできないのでしょうか。何がそのための道をはばむのでしょうか。何によって健全に進歩することができないのでしょうか。
 歴史を見れば、その原因はたくさんあり、問題は複雑であることを、わたしたちはよく知っています。けれども、神のことばはわたしたちに、中風の人を担いだ人びとがもっていたような、信仰の目と信頼をもつように招いています。中風の人を真の意味でいやすことができるのは、イエスだけだからです。わたしの前任者の教皇たち、とりわけわたしたちの敬愛すべきヨハネ・パウロ二世が根本的に選んだのは、現代人をあがない主であるキリストに導くことでした。それは、無原罪のマリアの取り次ぎを通して、キリストに現代の人びとをいやしていただくためです。
 わたしもこの道を歩みたいと思っています。特に、最初の回勅『神は愛』(デウス・カリタス・エスト)によって、わたしは信者と全世界に、神が真の意味で愛の源であることを示したいと望みました。神の愛だけが、人の心を新たにすることができます。そして、人類は、麻痺した心をいやされたときに、初めて起き上がって歩くことができるのです。神の愛こそ、世を新たにするための真の力です。
 ともに、おとめマリアの取り次ぎを祈り求めようではありませんか。すべての人が神のあわれみ深い愛に心を開きますように。こうして、人類家族が自分たちを苦しめるさまざまな悪から深い意味でいやされることができますように。

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