教皇ベネディクト十六世の2006年2月26日の「お告げの祈り」のことば 断食について

教皇ベネディクト十六世は、2月26日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。 この […]

教皇ベネディクト十六世は、2月26日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
この「お告げの祈り」のことばの中で、教皇は、今週3月1日(水)から始まる四旬節に先立って、この日の年間第8主日の福音(マルコ2・18-20)の解説を行いました。
「お告げの祈り」の後行われたイタリア語でのあいさつで、教皇は、最近イラクとナイジェリアで起こったテロについて、次のように述べました。「ここ数日、引き続いて、イラクでの悲惨な暴力についての知らせがもたらされています。暴行はモスク自体の中で行われました。こうした行為は、人びとに悲しみをもたらし、憎しみをあおり、イラクにおけるこれまでの困難な復興活動を深刻なかたちで妨げています。ナイジェリアでは、数日間にわたるキリスト教徒とイスラム教徒の間の衝突のために、多くの人が犠牲となり、教会とモスクが破壊されました。わたしは、礼拝の場所が侵害されたことを強く非難するとともに、亡くなったかたと、悲しみのうちにあるご遺族の皆様のために主に祈ります。さらにわたしは、皆様に、この四旬節という聖なる季節の間、いっそう深く祈りと悔い改めのわざを行ってくださるようお願いします。こうして、主が、これらの愛する国々と、地上の多くの地域から、このような紛争の脅威をなくしてくださいますように。神への信仰がもたらすものは、破壊的な敵対関係ではなく、共通善を実現するための友愛と協力の精神です。すべてのものの造り主であり父である神は、神の名において兄弟の血を流したすべての人に、いっそう厳しい報告を求めるでしょう。聖なるおとめの執り成しによって、すべての人が、真の意味での平和であるかたと再び出会うことができますように」。
2月22日(水)に起こったイラク中部サマラのシーア派聖廟攻撃以来の、シーア派とスンニ派双方の報復攻撃により、イラクでは25日(土)までに200人以上の死者が出ています。
ナイジェリアでは、ヨーロッパにおけるムハンマド風刺漫画掲載を受けて2月18日(土)以来行われた暴動により、死者は150人以上に上っています。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今年の典礼暦年の主日の典礼を導いているマルコによる福音書は、一つの信仰教育の旅路をなしています。この旅路を通じて、弟子はイエスを神の子と認めるように導かれます。
 幸いな偶然によって、今日の箇所は断食というテーマを扱います。ご存知の通り、今週の水曜日の灰の式と悔い改めの断食をもって、四旬節が始まります。ですから、この福音の箇所は特にふさわしいものです。
 福音の箇所は次のような話です。イエスは徴税人のレビの家で食事の席に着いていました。そのとき、ファリサイ派の人びとと洗礼者ヨハネの弟子たちが、どうしてあなたの弟子たちは自分たちのように断食をしないのかと、イエスに尋ねました。イエスはこう答えました。花婿が一緒にいるときに、婚礼の客は断食できない。花婿が彼らから奪い取られるときに、彼らは断食することになる(マルコ2・18-20参照)。
 このことばによって、キリストはご自分がメシア、すなわちイスラエルの花婿であることを示しました。イスラエルの花婿は、その民と結婚するために来られるかただからです。このかたを認めて、信仰をもって迎え入れる者は、喜び祝います。しかし、このかたは、まさに自分の民によって受け入れられず、殺されます。そのとき、すなわち、受難と死の間、キリストの死を悲しみ、断食を行う時が来るのです。
 すでに申し上げたように、この福音の話は四旬節の意味の先取りとなっています。実際、四旬節を通して、わたしたちは主の受難の大いなる記念を行い、復活のための過越を準備します。四旬節の間、わたしたちは「アレルヤ」を歌わず、また、ふさわしいしかたで悔い改めのための節制を行うよう招かれます。
 わたしたちは四旬節という季節を、「古い」心で迎えてはなりません。つまり、四旬節を、重く、わずらわしい義務のように考えてはなりません。むしろわたしたちは、新しい心をもって四旬節を迎えなければなりません。新しい心とは、イエスとその過越の神秘の内に、生きることの意味を見いだし、今やすべてのことをイエスと関連づけて考えなければならないと感じるような心です。これこそ、使徒パウロのとった態度でした。パウロはいっています。自分はキリストを知るために、すべてのものを捨て去りました。パウロは「キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(フィリピ3・10-11)。
 四旬節の旅路の間、至聖なるマリアが、わたしたちの導き手、また師となってくださいますように。マリアは、イエスが受難の苦しみを受けることを決意してエルサレムへと向かったとき、まったき信仰をもってイエスに従ったからです。「新しい器」であるマリアは、メシアの結婚のために御子が用意した「新しいぶどう酒」を受け入れました(マルコ2・22参照)。そして、このようなかたちで、マリアは十字架のもとであの恵みを最初に与えられました。すなわち、御子の刺し貫かれたみ心から流れ出て、人類のために与えられた神の愛の受肉の恵みです。マリアはこの恵みを、母としての本能から、カナの花嫁と花婿のために願ったのです(教皇ベネディクト十六世回勅『神は愛』13-15参照)。

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