教皇ベネディクト十六世の41回目の一般謁見演説 四旬節の意味について

3月1日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の41回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、四旬節の意味について解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。 サ […]

3月1日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の41回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、四旬節の意味について解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
サンピエトロ広場で一般謁見が行われるのは、昨年(2005年)12月28日の28回目の一般謁見以来9週間ぶりです。謁見には12,000人の信者が参加しました。
一般謁見の最後に、日本の巡礼者とともに一般謁見に参加した白柳誠一枢機卿が、教皇と親しくことばを交わしました。
3月5日(日)から11日(土)まで、教皇と教皇庁の霊操が行われるため、次週3月8日(水)の一般謁見はありません。今年の霊操における説教は、ヴェネツィア名誉総大司教のマルコ・ツェ(Marco Cé)枢機卿(80歳)が行います。今年の霊操のテーマは「マルコによる福音書に導かれて、イエスとともに復活祭に向けて歩む」です。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日の灰の水曜日の典礼から、四旬節の40日の旅路が始まります。四旬節の旅路は、わたしたちを聖なる過越の三日間へと導きます。聖なる過越の三日間は、わたしたちの救いの神秘の中心である、主の受難と死と復活を記念します。
 四旬節は幸いな季節です。この季節の間、教会は、キリスト信者が、キリストのあがないのわざをもっとよく知り、自分たちの洗礼の恵みをもっと深く生きるように招くからです。実際、この典礼の季節において、神の民は初めから、神のことばで豊かに養われ、創造とあがないの歴史全体を思い起こしながら、その信仰を強められます。
 40日間にわたって続く四旬節が、わたしたちに思い起こすことを可能にさせる力をもっていることは、間違いありません。実際、四旬節は、古代イスラエルの生活と歴史に刻まれたいくつかの出来事を想起しようとします。四旬節はまた、わたしたちに模範を示します。たとえば、40日間の大洪水のことを考えてみましょう。大洪水の後、神はノアと契約を結びました。こうして神は人類と契約を結んだのです。また、モーセが40日間シナイ山にとどまったことを考えてみましょう。その後、二枚の掟の板が与えられました。
 何よりも、四旬節という季節は、イエスとともに、イエスが荒れ野で過ごした40日間をもう一度体験するようにわたしたちを招きます。イエスは、人びとに宣教を始める前に、40日にわたり祈りと断食を行いました。
 今日、わたしたちも、全世界にいるすべてのキリスト信者とともに、考察と祈りの旅を始めます。それは、信仰の神秘の中心を黙想しながら、霊的な意味でカルワリオ(ゴルゴタ)に赴くためです。こうしてわたしたちは、十字架の神秘の後に、復活祭における復活の喜びを味わう準備をするのです。
 今日、すべての小教区共同体では、おごそかに象徴的な行事が行われます。すなわち、灰をかける式です。この灰の式では、意味深い二つのことばが用いられます。この二つのことばは、わたしたちに、自分が罪人であることを認め、神に立ち帰るように強く促します。第一のことばは次のものです。「あなたは塵(ちり)であり、塵に帰って行くのです」(創世記3・19参照)。創世記からとられたこのことばは、人間の状況が、滅びと限界のしるしのもとに置かれていることを思い起こさせます。そして、神のみに希望を置くようにわたしたちを導きます。
 二番目のことばは、イエスが宣教の旅の初めに述べたことばに基づいています。「回心して福音を信じなさい」(マルコ1・15)。このことばは、揺るぐことのない信頼をもって、福音を信じるようにと招きます。福音は、個人と共同体の刷新の基盤となるからです。
 キリスト信者の生活は、信仰の生活です。信仰の生活は、神のことばを基盤とし、神のことばによって養われます。生活の中で試練や誘惑に出会うとき、勝利を得るための秘訣は、真理のみことばに耳を傾け、偽りと悪をきっぱりと退けることです。
 四旬節に真の意味でなすべきことの中心は、次のことです。すなわち、真理のみことばを聞くこと。真理を語り、真理を行うこと。偽りを退けることです。偽りは、人類を毒し、すべての悪に通じる扉だからです。ですから、この40日の間、主のことばであり、真理のことばである、福音にあらためて耳を傾けることが求められています。それは、すべてのキリスト信者が、すなわち、わたしたち皆が、いっそう強く真理を自覚できるようになるためです。真理は、それを生き、あかしするために、キリスト信者に、すなわち、わたしたちに与えられているからです。
 四旬節はわたしたちに、神のことばを自分たちの生活に行き渡らせるように促します。また、そこから、わたしたちが根本的な真理を知るように促します。根本的な真理とは、次のことです。すなわち、わたしたちはどこから来たのか。わたしたちはどこに向かうべきか。わたしたちはどのような生き方をしなければならないか、ということです。それで、四旬節はわたしたちにとって、修徳と典礼の旅路となります。この旅路によって、わたしたちは自分たちの弱さに目を開き、キリストの憐れみ深い愛に心を開くことができるようになります。
 四旬節は、わたしたちを神に近づけます。そこからわたしたちは、兄弟と、兄弟が必要としていることを、新しい目で見ることができるようになります。神を見ることを始めた人は、すなわち、キリストのみ顔を仰ぎ見ることを始めた人は、兄弟を見る目が変わります。その人は、兄弟の善いところも、悪いところも、必要とすることも含めて、兄弟を見いだすのです。
 四旬節は真理に耳を傾ける季節です。ですから、四旬節は、愛へと回心するための幸いな期間なのです。なぜなら、深い意味での真理――神の真理――は、同時に、愛だからです。神の真理へと回心するためには、かならず愛へと回心しなければなりません。愛はわたしたちに、主の憐れみといつくしみのわざを行うことを可能にします。わたしが四旬節メッセージでいおうとした通りです。四旬節メッセージのテーマは、福音書の次のことばです。「イエスは、群衆を見て、深く憐れまれた」(マタイ9・36)。
 世における自らの使命を自覚しながら、教会はキリストの憐れみ深い愛を告げ知らせ続けます。キリストは、すべての時代の人間と民族にその憐れみ深いまなざしを向け続けておられるからです。「世界のあまりにも多くの人々を苦しめている貧困というとてつもない難題を前にして、無関心と利己主義は、キリストの『まなざし』とあまりにも懸け離れています。教会が四旬節の間に特に勧める、祈りをともなった断食と献金は、わたしたちがこの『まなざし』に従う者となるためにふさわしい手段です」(教皇ベネディクト十六世「2006年四旬節メッセージ」:L’Osservatore Romano, 1 febbraio 2006, p. 5)。この「まなざし」とはキリストのまなざしです。こうしてわたしたちは、わたしたち自身と、人類と、他の人を、キリストのまなざしで見るようになります。このような心で、わたしたちは節制と祈りの雰囲気のうちに四旬節を始めます。この雰囲気は、まことに、兄弟への愛の雰囲気だということができます。
 四旬節が考察と深い祈りの日々となりますように。そして、この日々を通して、わたしたちが、典礼によって豊かに与えられる神のことばに導かれますように。また、四旬節が、断食と、悔い改めと、自分自身への注意を深める時となりますように。なぜならわたしたちは、罪との戦いがけっして終わることがないことを知らなければならないからです。わたしたちは日々、誘惑にさらされており、誰もが毎日、自分の弱さと思い違いを経験しています。
 最後に、施しのわざを通じて、四旬節が人への善行のための時となりますように。四旬節の間、与えられたたまものを兄弟と分かち合い、貧しい人、見捨てられた人が必要としていることに注意を払うことができますように。
 あがない主の母であり、神に耳を傾け、神のことばを忠実に守ることをわたしたちに教えてくださるかたであるマリアが、わたしたちとともにこの悔い改めの旅路を歩んでくださいますように。わたしたちが思いと心を浄め、新たにされて、キリストの過越の偉大な神秘を祝うことができるよう、おとめマリアが助けてくださいますように。このような思いをもって、わたしは皆様が、実り豊かなよい四旬節を送られることを祈ります。

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