教皇ベネディクト十六世の2006年3月12日の「お告げの祈り」のことば 主の変容について

教皇ベネディクト十六世は、3月12日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。 3月 […]

教皇ベネディクト十六世は、3月12日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
3月5日(日)夕方から始まった、教皇庁内の黙想会は11日(土)朝、終わりました。3月12日は四旬節第2主日で、福音朗読の箇所はマルコ9・2-10でした。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 昨日の朝、一週間の黙想会が終わりました。黙想会の説教は、ここ教皇公邸で、ヴェネツィア名誉総大司教のマルコ・ツェ枢機卿によって行われました。黙想会を行う日々はすべて、主のことばを聞くことに当てられました。主は常にわたしたちに語っています。しかし主は特に四旬節の間、わたしたちがそのことばをよく聞くように求めています。
 今日の主日の福音の箇所も、そのことをわたしたちに思い起こさせてくれます。この箇所は、タボル山でのキリストの変容について語っています。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの目の前で主は姿を変えて、モーセとエリヤと語り合いました。驚いた彼らを、突然雲が覆い、雲の中から声がしました。その声はこう告げ知らせました。「これはわたしの愛する子。これに聞け」(マルコ9・7)。
 人は、強烈に神を体験する恵みを与えられるとき、主の変容の間に弟子たちが体験したのと同じようなことを見るかのように感じます。弟子たちは、一瞬の間、将来与えられる楽園の至福の一部を前もって味わいました。要するに、それは、神が時として、特にわたしたちが厳しい試練のうちにあるときに与えてくれる、つかの間の経験です。しかし、この地上では、だれも「タボル山の上に」住むことはありません。
 実際、人生は信仰の旅路です。この信仰の旅路を、わたしたちは明るい光のもとでではなく、薄明かりの中で歩みます。暗闇の中を歩くこともあれば、真の闇の中を歩くこともあります。このような暗闇の中にいるとき、わたしたちの神との関係は、見ることよりも、聞くことによっていっそう成長します。あえていえば、観想は、目を閉じた状態でも行われます。それを可能にするのは、わたしたちの中に神のことばによってともされた、内的な光です。
 おとめマリアは、被造物である人間の中で、もっとも神に近いかたでした。にもかかわらず、マリアも、日々、信仰の旅路を歩みました(『教会憲章』58参照)。マリアは、自分に語りかけた神のことばを、常に心の中に収め、思い巡らしました。神のことばは、聖書を通して語りかけることもあれば、御子の生涯の中のさまざまな出来事を通して語りかけることもありました。マリアは、この御子の生涯の中のさまざまな出来事の中に、主の神秘に満ちた声を聞き取り、それを受け入れたのです。
 それゆえ、マリアと同じように、キリストのことばを聞くこと――これが、四旬節の間、わたしたち一人ひとりに与えられた恵みであり、務めです。マリアと同じように、キリストのことばを聞くとは、聖書の中に記されたキリストのことばを聞くことです。わたしたちの人生のさまざまな出来事そのものの中で、キリストのことばを聞くことです。そのために、わたしたちは、このわたしたちの人生の出来事の中に摂理のメッセージを読み取ろうと努めなければなりません。最後に、それは、兄弟の中に、特に小さな人、貧しい人の中に、キリストのことばを聞くことです。イエスご自身が、この人びとのためにわたしたちが具体的な愛を示すことを求めているからです。キリストのことばを聞き、キリストの声に聞き従うこと。これこそ、わたしたちを満ち満ちた喜びと愛へと導く、王道であり、唯一の道なのです。

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