教皇ベネディクト十六世の42回目の一般謁見演説 教会に対するイエスの望みと、十二人の選び

3月15日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の42回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「教会に対するイエスの望みと、十二人の選び」について解説しました。以下はその全訳 […]

3月15日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の42回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「教会に対するイエスの望みと、十二人の選び」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
2月15日で教会の祈りの晩の祈りの詩編と賛歌についての連続講話が終わりました。教皇は、次週の謁見から、「キリストと教会の関係の神秘」をテーマとした新しい連続講話を始めることを発表しました。演説に先立って、マルコによる福音書3章13-19節が朗読されました。
謁見には30,000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 朝の祈りと晩の祈りの詩編と賛歌についての講話に続いて、わたしは来週の水曜日から、キリストと教会の関係の神秘について扱いたいと思います。わたしはこの神秘を、使徒たちに使命が委ねられたことに照らしながら、使徒たちの経験から考察します。
 教会は、信仰、希望、愛の共同体である使徒たちを土台として建てられました。使徒たちを通してわたしたちはイエスにさかのぼります。
 教会の創立が始まったのは、数人のガリラヤの漁師がイエスと出会ったときでした。漁師たちはイエスのまなざし、イエスのことば、イエスの力強く、また暖かい招きに捉えられました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1・17、マタイ4・19)。
 わたしの敬愛すべき前任者であるヨハネ・パウロ二世は、第三千年期の初めにあたって、教会に対して、キリストのみ顔を観想することを勧めました(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『新千年期の初めに』16以下参照)。この方針に促されながら、今日わたしが始める講話の中で、わたしは、まさにこのみ顔の光が、教会の顔のうちに反映していることを示したいと思います(第二バチカン公会議『教会憲章』1参照)。そのことは、わたしたちの弱く罪深い人間性が、限界と暗い側面をもっているにもかかわらず、いえることなのです。
 マリアはキリストの光の完全な映しです。このマリアに続いて、使徒たちは、彼らのことばとあかしを通じて、キリストの真理をわたしたちに伝えました。しかしながら、使徒たちの使命は、彼らがひとりで行ったものではありません。使徒たちの使命は、交わりの神秘のうちに与えられました。それは神の民全員に関わり、古い契約から新しい契約へと段階を追って実現されました。
 この意味で、わたしたちはこういわなければなりません。すなわち、イエスのメッセージを、選ばれた民の信仰と希望との関連から切り離すなら、わたしたちはこのメッセージを完全に誤解することになるのだと。イエスの直前に来た、洗礼者ヨハネがしたのと同じように、イエスは何よりもまずイスラエルのすべての民に呼びかけました(マタイ15・24参照)。それはイエスの到来とともに来た終わりの時に、この民を「集める」ためでした。
 また、ヨハネと同じように、イエスの説教は、恵みに満ちた招きであると同時に、反対を受けるしるしであり、すべての神の民への裁きでもありました。それゆえ、ナザレのイエスは、その救いのわざを行う最初の瞬間から、神の民を集め、そして清めることを目指していました。イエスの説教は常に個人の回心を求めましたが、実際には、それは神の民を築くことを目指し続けていたのです。イエスが来られたのは、神の民を集め、救うためだったからです。
 ですから、キリストによる神の国の告知を個人主義的に解釈しようとする、自由主義神学の試みは、一面的で、根拠のないものです。偉大な自由主義神学者のアドルフ・フォン・ハルナック(1851-1930年)は、1900年に行われた『キリスト教の本質』と題する講義の中で、この解釈を要約してこう述べています。「神の国の到来するのは、それが個人個人に来り、彼らの霊魂を捉えることによってである。神の国は、たしかに神の『支配』である――しかしそれは、聖なる神が個人の心を支配することである」(『キリスト教の本質』第3講〔山谷省吾訳、玉川大学出版部、1977年、64頁〕)。
 実際、自由主義神学が唱えたこのような個人主義は、とりわけ近代において強調されました。聖書の伝統の観点から考えても、また、ユダヤ教の背景から考えても――イエスのわざは、どれほどそれが新しいとはいえ、ユダヤ教の背景の中に位置づけなければならないからです――、肉となった御子の使命全体の目的が、共同体的なものであったことは明らかです。御子が来たのは、散らされた人類を集めるためにほかなりません。御子は、神の民を集め、一つにするために来たのです。
 ナザレのイエスが目指していたのは、契約の共同体を集めることでした。それは、先祖たちに行われた約束が、この契約の共同体のうちに実現することを示すためでした。先祖たちは常に、神が民を呼び寄せ、集め、一つにすることを述べていたからです。ナザレのイエスがこのようなことを目指していたことをはっきりと示すしるしが、「十二人の任命」です。わたしたちは先ほど、この十二人の任命について述べた福音書のことばを聞きました。
 ここでもう一度、中心となる箇所を読んでみたいと思います。「イエスが山に登って、これと思う人びとを呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し・・・・た。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能をもたせるためであった。こうして十二人を任命された」(マルコ3・13-16。マタイ10・1-4、ルカ6・12-16参照)。
 「山」は、啓示が行われる場所です。この「山」で、イエスは、それがイエスの完全な自覚と決断をもって行われたことを示す、自分からの指名によって、十二人を任命しました。それは、彼らがイエスとともに、神の国の到来をあかしし、告げ知らせることができるようにするためでした。この招きが歴史的に実際行われたものであることについては、疑問の余地がありません。それは、証言が古く、多数あるという理由にもよりますが、単純な事実にも基づいています。すなわち、その名前を入れれば、初期の共同体に問題を引き起こしかねなかったにもかかわらず、イエスを裏切った使徒ユダの名前が挙げられていることです。
 十二という数が、イスラエルの十二部族に基づいていることは明らかです。そこで、この数は、聖なる民を再び創立するという新たなわざが、預言的また象徴的な意味をもつ行為であることを示します。十二部族の制度がなくなった後、イスラエルは終わりの日の到来を表すしるしとして、この制度が再建されることを待望しました(このことはエゼキエル書の結びの37章15-19節、39章23-29節、40-48章に読み取ることができます)。
 イエスは十二人を選んで、彼らに自分と生活を共にさせ、また、彼らをことばとわざをもって神の国を告げ知らせるという同じ使命にあずからせました(マルコ6・7-13、マタイ10・5-8、ルカ9・1-6、ルカ6・13参照)。こうすることによって、イエスは、決定的な時が到来しているといいたかったのです。それは、神の民、十二部族の民が新たに建てられる時です。十二部族の民は、今や、世界に広がる民である、イエスの教会へと変わります。
 十二人は、さまざまな経歴から招かれました。しかし彼らは、ただ存在するだけで、全イスラエルに対する、回心して、新しい契約を結ぶようにという、呼びかけとなりました。この新しい契約は、古い契約を余すところなく完全に実現するからです。イエスは受難の前の最後の晩餐において、自分の記念を行うという任務を十二人に委ねました。こうしてイエスは、歴史を通じて、自分が始めた終わりの日の集いのしるしと道具となるようにという命令を、全共同体に対して、その頭たちに代表させるかたちで、与えようと望んでいることを示したのです。
 ある意味でわたしたちは、最後の晩餐とは、教会を創立するわざそのものであるということもできます。なぜなら、イエスはご自身をささげることによって、新しい共同体を造り出したからです。それは、イエスご自身との交わりに結ばれた共同体です。このような観点から、復活したかたが、聖霊を注ぐことによって、十二人に罪をゆるす権能を与えたことの意味を理解することができます(ヨハネ20・23参照)。こうして十二使徒は、イエスの教会の存在と使命に対してイエスが抱いている望みを、もっともはっきりと表すしるしとなります。すなわち彼らは、キリストと教会の間にはいかなる対立もないことを保証します。教会を構成する民は罪を犯しますが、にもかかわらず、キリストと教会は不可分です。
 ですから、数年前に「キリストには然り、教会には否」という標語が流行しましたが、キリストの意図と、このような標語は、決して相容れるものではありません。こうした個人主義的に理解されたイエスは幻想にすぎません。イエスが造り、それを通してイエスがご自分を伝えている現実を抜きにして、イエスを見いだすことはできません。人となった神の子と、その教会とは、深く、分かちがたいしかたでつながっています。このようなつながりのおかげで、キリストは今日もその民とともにいてくださることができるのです。
 キリストは常にわたしたちと同じ時代にいてくださいます。キリストは、使徒の土台の上に築かれた教会の中で、わたしたちと同じ時代にいてくださいます。キリストは、使徒が受け継がれることによって生きています。そして、キリストが共同体の中にともにいてくださり、その共同体の中で常にご自身をわたしたちに与えてくださることが、わたしたちの喜びの理由です。そうです。キリストはわたしたちとともにいてくださいます。神の国は来ているのです。

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