教皇ベネディクト十六世の44回目の一般謁見演説 交わりのたまもの

3月29日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の44回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日の42回目の一般謁見から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の […]

3月29日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の44回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日の42回目の一般謁見から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の3回目として、「交わりのたまもの」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ヨハネの手紙一1章5-7節が朗読されました。謁見には40,000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 教会は、人となった神の子によって集められた共同体です。この教会は、使徒の奉仕職を通じて、世々にわたって生き続けながら、キリストと聖霊との交わりを築き、養います。すべての人はこの交わりへと招かれ、またこの交わりの内に、御父に与えられた救いを経験するからです。ペトロの3人目の後継者である教皇クレメンスは、1世紀の終わりに述べているように、十二使徒は、実際に、自分たちの後継者を任命するように配慮しました(『クレメンスの手紙――コリントのキリスト者へ(一)』42・4参照)。それは、彼らに委ねられた使命が彼らの死後も果たし続けられるためでした。正統な牧者の指導のもとに組織された教会は、幾世紀もの間、交わりの神秘として、世を生き続けてきました。この交わりの内に、ある意味で三位一体の交わりそのものが反映しています。三位一体の交わりとは、神の神秘にほかなりません。
 すでに使徒パウロは、この三位一体という、交わりの最高の源に触れながら、自分のキリスト信者たちを次のように祝福しています。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同にあるように」(二コリント13・13)。このことばは、おそらく初代教会の典礼を繰り返したものです。そこでは、イエス・キリストの内に与えられた御父の愛という無償のたまものが、聖霊がもたらす交わりの内にどれほど実現され、表現されているかが強調されています。
 テキストの中で用いられる3つの属格(「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」)の間の密接な関係に基づく、この解釈を通じて、「交わり」は、聖霊の特別なたまものであり、父なる神が与える愛と、主イエスがもたらす恵みの実りであることが示されます。
 さらに、兄弟愛への強調を特徴とするテキストの文脈は、わたしたちを次の理解へと導きます。すなわち、聖霊の「交わり(コイノニア)」は、いわば個人的に、一人ひとりが自分のために神のいのちに「あずかる」だけでなく、当然のこととして、信者どうしの「交わり」でもあるということです。この信者どうしの「交わり」を与える、主な担い手となるのは、聖霊です(フィリピ2・1参照)。
 キリストと御父と聖霊についてそれぞれ述べられる、恵みと愛と交わりは、わたしたちの救いのために神が行う一つのわざのもつさまざまな側面です。このわざが、教会を造り出し、また、このわざによって、教会は成り立っています。3世紀に聖チプリアノは、教会とは「父と子と聖霊の一致に基づいて一つに集められた民」(『主の祈りについて』:De Oratione Dominica, 23: PL 4, 536、『教会憲章』4に引用)だと述べています。
 交わりとは、三位一体のいのちにあずかることであるという考えは、ヨハネによる福音書の中で特に強調して述べられています。ヨハネによる福音書において、御子と御父を、また御子と人間を一つに結びつける愛の交わりは、同時に兄弟の一致の模範と源泉でもあります。この兄弟愛をもって、弟子は互いに一つに結ばれます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15・12。13・34参照)。「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(ヨハネ17・21、22)。こうして、三位一体の神と人びとの交わりと、人びとの互いの交わりが生まれます。地上を旅する間、御子との交わりを通して、弟子はすでに、御子がもっている神のいのちと、御父がもっている神のいのちにあずかることができます。「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(一ヨハネ1・3)。
 この、神との交わりと、わたしたちの互いの交わりのいのちこそが、福音を告げ知らせることの目的にほかなりません。それはキリスト教に回心することの目的でもあります。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりをもつようになるためです」(一ヨハネ1・3)。ですから、神との交わりと、わたしたちの互いの交わりという、この二つの交わりを切り離すことはできないのです。
 神との交わりは、御父と御子と聖霊との交わりです。ですから、神との交わりが壊れれば、わたしたちの間の交わりの根拠と源泉も壊れます。また、わたしたちの間の交わりが経験されていなければ、三位一体の神との交わりは、生きたものにも、真実のものにもなることができません。先ほど朗読されたとおりです。
 さらに考えを進めてみたいと思います。交わりは聖霊の実りです。この交わりは、聖体のパンによって養われるとともに(一コリント10・16-17参照)、ある意味で、来るべき世の先取りである、兄弟の間の関係によって表されます。聖体によって、イエスはわたしたちを養い、わたしたちをご自身と、御父と、聖霊とに結びつけ、またわたしたちを互いに一つに結びつけます。世を包み込む、この一致のきずなは、この世における来るべき世の先取りです。
 交わりが来るべき世の先取りであるなら、このたまものはきわめて具体的な結果をもたらすことになります。交わりは、わたしたちを孤独から連れ出し、自分自身に閉じこもることをやめさせ、わたしたちを愛にあずかることができるようにします。この愛が、わたしたちを神と結びつけ、またわたしたちどうしを結びつけます。この交わりのたまものがいかにすばらしいものであるかは、個人どうしの関係や、集団間の関係、またすべての国家間の関係を損なっている、さまざまな分裂や紛争を考えてみれば、すぐにわかります。聖霊による一致のたまものがなければ、人類の分裂を避けることは不可能です。
 「交わり」はまことに福音です。それは、今日、すべての人を脅かしている孤独と戦うために、主がわたしたちに与えた薬です。わたしたちは、この貴重なたまものによって、神の内に、また三位一体の名によって集められた神の民の一致の内に、受け入れられ、愛されていることを感じることができます。交わりのたまものは、諸国の民の中に高く上げられたしるしとして、教会を輝かせる光です。「わたしたちが、神との交わりをもっているといいながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりをもちます」(一ヨハネ1・6-7)。
 教会はさまざまな人間的な弱さをもっており、この弱さが、教会の歴史的姿に含まれています。にもかかわらず、これまで述べてきたことは、教会が驚くべき愛のわざであることを示しています。教会は、世の終わりに至るまで、キリストと出会うことを真に望むすべての人びとが、キリストに近づくことができるようにするために建てられました。そして主は教会の中で、いつもわたしたちと同時代の者でい続けてくださいます。聖書は過去のものではありません。主は過去に語られるのではありません。主は今、語られます。主は現代のわたしたちに語りかけています。主はわたしたちに光を与え、わたしたちに生きる道を示します。主はわたしたちに交わりを与えます。このようにして、主はわたしたちを平和に向けて備えさせ、わたしたちの心を平和へと開くのです。

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