教皇ベネディクト十六世の45回目の一般謁見演説 交わりへの奉仕

4月5日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の45回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての […]

4月5日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の45回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の4回目として、「交わりへの奉仕」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、使徒言行録2章42-45節が朗読されました。謁見には30,000人の信者が参加しました。
演説の後、スペイン語で行われた祝福の中で、教皇は4月7日(金)のフランシスコ・ザビエル(1506年4月7日-1552年12月3日)生誕500年祭に寄せて次のように述べました。
「来る4月7日にフランシスコ・ザビエル生誕500年を記念します。この偉大なイエズス会宣教者は、アジアの地で福音を宣べ伝え、キリストに向けて多くの扉を開きました。わたしもこの記念に参加して、教会にこの偉大なたまものを与えてくださったことを主に感謝したいと思います。わたしはスペインのナバラのザビエル聖堂で記念祭を司式させるために、アントニオ・マリア・ロウコ枢機卿を派遣しました。わたしはロウコ枢機卿と、この有名な巡礼地に赴くすべての巡礼者とともに記念祭に参加します。
 聖フランシスコ・ザビエルの姿を仰ぎ見るとき、わたしたちは、生涯を福音宣教にささげ、イエスの救いの知らせの美しさを告げ知らせる人びとのために祈るように招かれます。
 同時にわたしは皆様に祈ってくださるようお願いします。聖人の執り成しにより、バスク地方とスペイン全土で開きかけているように見える平和への展望への努力がいっそう深められ、前途に立ちふさがる障害を乗り越えることができますように」。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 数週間前から始めた新しい連続講話の中で、わたしたちは教会の起源について考察しようとしています。それは、イエスの本来の計画を知り、そこから、時代が過ぎても変わることのない、教会の本質を知るためです。わたしたちはまた、自分たちが教会の中にいる理由と、キリスト紀元の新千年期の始まりを生きるわたしたちがどのような努力をしなければならないかを知りたいと思っています。
 初代教会のことを考えると、わたしたちは二つの点に気づきます。第一の点は、リヨンの聖イレネオが特に強調したことです。イレネオは2世紀末の殉教者また偉大な神学者です。イレネオは、ある意味で最初に組織神学を述べた神学者です。
 聖イレネオはこう述べています。「教会のあるところには神の霊もあり、神の霊のあるところには教会とすべての恵みがある。霊は真理だからである」(『異端反駁』[Adversus haereses] 3・24・1:PG 7, 966)。ですから、聖霊と教会の間には深い関係があります。聖霊は教会を築き、教会に真理を与えます。そして聖霊は、聖パウロがいうように、信者の心に愛を注ぎます(ローマ5・5参照)。
 けれども、さらに第二の点があります。わたしたちの人間性がどんなに弱いものであっても、この霊との深い関係は、わたしたちの人間性を排除しません。ですから、霊との深い関係は、弟子の共同体を排除しないのです。弟子の共同体は、真理と愛の恵みである聖霊の喜びを味わっただけではありませんでした。弟子たちは試練をも経験しました。この試練は、何よりも、信仰の真理をめぐる対立と、そこから生じる、交わりの分裂によるものでした。
 愛の交わりは初めから存在し、終わりまで存在し続けます(一ヨハネ1・1以下参照)。悲しむべきことに、それと同様に、分裂もまた初めから生じました。この分裂が現代にも存在するからといって驚いてはなりません。ヨハネの手紙一はこう述べています。「彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、誰もわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました」(一ヨハネ2・19)。
 ですから、世の移り変わりと、教会の弱さのために、信仰を失い、そこから愛と兄弟愛を失う危険は常に存在します。そこで、愛の教会を信じ、この教会のうちに生きることを望む者は、特別な務めとして、この危険を認めなければなりません。また、救いの教えから遠ざかった人と交わりをもつことができないことを受け入れなければなりません(二ヨハネ9-11参照)。
 交わりを生きるためにこのような緊張がありうることを、初代教会が自覚していたことは、ヨハネの手紙一からよくわかります。新約聖書の中で、ヨハネの手紙一ほど、キリスト信者の間に兄弟愛があること、また兄弟愛をもつべきことを強調した文書はありません。けれども同じ文書は、かつて共同体に属しながら、今は共同体を離れた敵に対してきわめて厳しいことばで語りかけます。
 愛の教会は、同時に真理の教会でもあります。真理とは、何よりも、主イエスによってイエスに属する者に委ねられた福音への忠実さにほかなりません。キリスト信者の兄弟愛は、真理の霊によって同じ父の子であることから生まれます。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」(ローマ8・14)。しかし、神の子の家族は、一致と平和のうちに生きるために、自分たちを真理のうちに保ち、賢明で権威のある識別によって導く者を必要とします。これが、使徒の奉仕職が行うように招かれたことです。
 そして、ここでわたしたちは重要な点に到達します。教会は完全に霊によるものです。しかし、教会には組織、すなわち使徒的継承が存在します。この使徒的継承が、キリストの与えた真理における教会の不変性を保証する責任を担います。またこの使徒的継承から、愛する力も生まれるのです。使徒言行録の最初のまとめの句は、初代教会の生活においてこうした価値観が一つにまとまっていたことを大変力強く表現しています。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり(コイノニア)、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使徒言行録2・42)。
 交わりは、使徒の説教が呼び起こした信仰から生まれ、パンを裂くことと祈りによって養われ、兄弟愛と奉仕によって表されます。ここには、初代教会の交わりが、豊かな内的力と、目に見える表現をもって述べられています。交わりのたまものは、使徒の奉仕職によって保たれ、成長します。また、使徒の奉仕職は、全共同体に与えられたたまものです。
 ですから、使徒とその後継者は、教会に与えられた信仰の遺産の守護者であり、またその権威のある証人であると同時に、愛の奉仕者でもあります。この二つの側面はひとつながりのものです。使徒とその後継者は常に、この二つの奉仕が切り離しえないものであることを考えなければなりません。実際、真理と愛は同じです。ともに主イエスによって示され、与えられたからです。その意味で、使徒とその後継者は、何よりも愛の奉仕を行わなければなりません。この、彼らが体験し、成長させなければならない愛は、彼らが守り、伝える真理と切り離すことができません。
 真理と愛は、同じたまものの二つの側面です。このたまものを与えたのは神です。そして、このたまものは、使徒の奉仕職によって、教会のうちに保たれ、現代のわたしたちにまで伝えられました。使徒とその後継者の奉仕を通じて、わたしたちは三位一体の神の愛をも与えられました。それは、わたしたちを自由にする真理を伝えるためでした(ヨハネ8・32参照)。わたしたちが初代教会のうちに認めたこれらすべてのことは、わたしたちを、使徒の後継者であるすべての司教とペトロの後継者のために祈るように招きます。これらの者が真の意味で真理と愛を守ることができますように。これらの者が真の意味でキリストの使徒となることができますように。こうして、真理と愛の光である彼らの光が、消えることなく教会と世を照らしますように。

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