ヨハネ・パウロ二世最初の命日祭ミサ説教(2006年4月3日)

4月3日(月)午後5時30分(日本時間4日午前0時30分)から、サンピエトロ広場で、ヨハネ・パウロ二世命日祭ミサが教皇ベネディクト十六世の司式でささげられました。ミサには3万人の信者が参加しました。以下はミサにおける教皇 […]

4月3日(月)午後5時30分(日本時間4日午前0時30分)から、サンピエトロ広場で、ヨハネ・パウロ二世命日祭ミサが教皇ベネディクト十六世の司式でささげられました。ミサには3万人の信者が参加しました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文はイタリア語)。
翻訳はイタリア語原文を底本としていますが、合わせて『オッセルバトーレ・ロマーノ』英語版2006年4月5日付に掲載された英訳も参照しました。見出しは英訳に基づきます。


 

親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 最初の命日祭が行われている特にこの数日間、神のしもべヨハネ・パウロ二世は、教会と世界で生き生きと思い起こされています。昨夜のマリアへの祈りによる晩の祈りで、わたしたちは1年前の教皇の敬虔な逝去とまさに同じ時間を過ごしました。今日、わたしたちは、同じこのサンピエトロ広場で、教皇の選ばれた霊魂の安息を祈って、感謝のいけにえをささげます。
 わたしは、枢機卿、司教、司祭、修道者のかたがたとともに、さまざまなところから来られた多くの巡礼者の皆様、特にポーランドからの巡礼者の皆様に心からごあいさつ申し上げます。皆様は尊敬と愛情と深い感謝を表すためにいらしてくださいました。今朗読された神のことばに照らされながら、この敬愛すべき教皇のために祈りましょう。
 第一朗読の知恵の書によって、わたしたちは、正しい人を待ち受けている永遠の定めを思い起こします。それは、彼らがその生涯で受けたさまざまな苦しみと試練に対して与えられる、比類のない報いとしての、あふれるような幸いです。「神が彼らを試し、ご自分にふさわしい者と判断されたからである。るつぼの中の金のように神は彼らをえり分け、焼き尽くすいけにえのささげものとして受け入れられた」(知恵3・5-6)。「焼き尽くすいけにえのささげもの」とは、炎で燃え尽きるまでに完全に犠牲を焼くいけにえのことです。そこで、「焼き尽くすいけにえのささげもの」は、神への完全な奉献を表すしるしとなりました。この聖書のことばは、ヨハネ・パウロ二世の使命をわたしたちに思い起こさせてくれます。ヨハネ・パウロ二世はその生涯を神と教会にささげました。また教皇は、特に感謝の祭儀を通して、奉献としての性格をもつ司祭職を生き抜きました。
 教皇がよく唱えた祈りの一つに、「祭司であり、いけにえであるイエス・キリストの連願」があります。教皇はこれを、司祭叙階50周年を記念して刊行した『たまものと神秘』の最後に掲げています(Dono e Mistero, pp. 113-116〔邦訳、斎田靖子訳、『賜物と神秘』エンデルレ書店、1997年、103-107頁〕参照〕。「自らをいけにえのささげものとして神に委ねた祭司であるイエス(Iesu, Pontifex qui tradidisti temetipsum Deo oblationem et hostiam)、わたしたちを憐れんでください」。
 この祈りを教皇はどれだけ繰り返して唱えたことでしょう。この祈りは、教皇の全生涯を深いところで特徴づけた、司祭としての性格をはっきりと表しています。教皇は、倦(う)むことのない使徒的奉献の源泉である感謝のいけにえを通して、祭司であるイエスとますます一致したいという望みを、けっして隠そうとはしませんでした。

マリアを引き取る
 もちろん、教皇の完全な自己奉献の根源にあったのは、信仰でした。今読まれた第二朗読の中で、聖ペトロも、火で試された金というたとえを用いて、これを信仰にあてはめています(一ペトロ1・7参照)。実際、人生のさまざまな困難にあって、特にわたしたち一人ひとりの信仰の質が、試され、証明されます。すなわち、信仰の堅固さ、純粋さ、生活との一貫性が試されるのです。ところで、故教皇は、多くの人間的また霊的たまものを神から与えられていました。しかし、教皇は、使徒的労苦と病気というるつぼを通ることにより、いっそう信仰の「岩」としての姿を現すようになりました。
 教皇と親しく接する機会を得た人は、教皇の純粋で揺らぐことのない信仰にほとんど手で触れることができました。教皇の信仰は、教皇の周りで働く協力者たちを感動させただけでなく、長い教皇職の間に、教会全体にまでそのよい影響を広く及ぼし続けました。その影響はいよいよ大きなものとなって、教皇の生涯の最後の数か月、最後の数日間において頂点に達しました。恐れや妥協と無縁の、揺るぐことのない、力強い、真の意味での信仰――それが、教皇の行った、世界のあらゆるところへの多くの使徒的巡礼を通して、また特にあの苦しみと死という最後の「旅」によって、多くの人の心を動かしました。
 今朗読された福音書の箇所の助けによって、わたしたちは教皇の人間としての、また宗教者としての人柄のもう一つの側面を理解することができます。わたしたちはこういうことができるかもしれません。さまざまな使徒の中で、ペトロの後継者である教皇は、誰よりも「愛する弟子」ヨハネに倣ったのだと。ヨハネは、あがない主が自らをささげて死ぬときに、マリアとともに十字架のもとに立っていたからです。福音書記者ヨハネは、イエスが自分のそばに立っている二人を見て、一人をもう一人に委ねたと述べています。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」。「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19・26-27)。このまさに死のうとしている主が述べたことばは、ヨハネ・パウロ二世の特別に愛したものでした。福音書記者である使徒ヨハネと同じように、教皇もマリアを自分の家に引き取りたいと望みました。「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った(et ex illa hora accepit eam discipulus in sua)」(ヨハネ19・27)。
 この「自分の家に引き取った」ということばは、きわめて意味深いことばです。このことばは、マリアに自分の生活にあずかっていただこうとするヨハネの決断を表しています。そこからヨハネは、自分の心をマリアに開く者は誰でも、実際にマリアに聞き入れられ、マリアのものとされることを経験したのです。教皇ヨハネ・パウロ二世の紋章に記された「すべてはあなたのものです(Totus tuus)」という標語は、マリアを通して完全なしかたでキリストへと方向づけられた生活の中で経験される、この霊的かつ神秘的な経験を適切なしかたで要約しています。「マリアを通してイエスへ(ad Iesum per Mariam)」。

希望を築く
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。この夕べ、わたしたちの思いは、感動をもって、敬愛する教皇の死の時へと向かいます。けれども、同時にわたしたちの心は、いわば前を見るように促されます。わたしたちは、心の中で、教皇が何度も繰り返して招く声が聞こえるのを感じます。恐れずに福音への忠実の道を進みなさい。第三千年期にあって、キリストを告げ知らせ、あかしする者となりなさいと。
 わたしたちは、教皇が絶えずこう勧めたことをあらためて思い起こさずにはいられません。人類がより連帯意識に満ち、より公正なものとなるように、惜しみなく協力しなさい。そして、平和を作る者、希望を築く者となりなさいと。わたしたちがいつもキリストに目をとめることができますように。「きのうも今日も、また永遠に変わることのないかた」(ヘブライ13・8)であるキリストは、しっかりと教会を導いてくださいます。わたしたちはキリストの愛を信じています。キリストとの出会いこそが、「人生に新しい展望と決定的な方向づけを与えます」(教皇ベネディクト十六世回勅『神は愛』1参照)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。教皇ヨハネ・パウロ二世にとってそうであったのと同じく、イエスの霊の力が、皆様すべてにとっても平和と喜びの源となりますように。また、教会の母であるおとめマリアの助けによって、わたしたちが、教皇と同じように、どんなときにも倦むことなく神の子を伝える使徒となり、神の子のいつくしみ深い愛を告げる預言者となることができますように。アーメン。

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