教皇ベネディクト十六世の46回目の一般謁見演説 聖なる過越の三日間の意味について

4月12日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の46回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、翌日13日(木)から始まる、聖なる過越の三日間の意味について解説しました。以下は […]

4月12日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の46回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、翌日13日(木)から始まる、聖なる過越の三日間の意味について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ヨハネによる福音書19章28-30、36-37節が朗読されました。謁見には40,000人の信者が参加しました。
バチカンでは、前日の受難の火曜日(4月11日)の午後5時30分から、サンピエトロ大聖堂で、教皇庁内赦院長ジェームズ・フランシス・スタッフォード枢機卿の司式によって、ゆるしの秘跡の式が行われました。バチカンにおける過越の聖なる三日間の典礼は次のように行われる予定です。
聖木曜日(4月13日)の聖香油のミサは午前9時30分(日本時間同日午後4時30分)から、サンピエトロ大聖堂で、主の晩さんのミサは午後5時30分(日本時間4月14日午前0時30分)から、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂で、いずれも教皇ベネディクト十六世の司式で行われます。聖金曜日(4月14日)の主の受難の典礼(ことばの典礼、十字架の礼拝、交わりの儀)は、午後5時(日本時間4月15日午前0時)からサンピエトロ大聖堂で、教皇の司式で行われます。同日、十字架の道行が午後9時30分(日本時間4月15日午前4時30分)からコロッセオで、教皇の司式で行われます。復活の主日(4月15日-16日)の復活徹夜祭は、15日午後10時(日本時間16日午前5時)から、サンピエトロ大聖堂で、教皇の司式で行われます。日中のミサは16日午前10時30分(日本時間同日午後5時30分)から、サンピエトロ大聖堂で、教皇の司式で行われます。その後、サンピエトロ大聖堂バルコニーから、教皇の復活祭メッセージ(ローマと全世界へ〔ウルビ・エト・オルビ〕)が発表される予定です。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 明日から、過越の三日間が始まります。過越の三日間は典礼暦全体の中心です。聖木曜日、聖金曜日、そして復活の聖なる徹夜祭の聖なる典礼に助けられて、わたしたちは主の受難と死と復活の神秘をあらためて体験します。
 この聖なる三日間は、わたしたちのうちに、キリストと一致し、惜しみない心でキリストに従いたいという望みをいっそう深く呼び覚ましてくれます。わたしたちは、キリストがご自分のいのちをわたしたちのためにささげるほど、わたしたちを愛してくださったことを知るからです。実際、聖なる三日間があらためてわたしたちに示す出来事は、人間に対するこの神の愛の最高の表現ではないでしょうか。
 そこで、聖アウグスチヌスの次のような勧めのことばに耳を傾けながら、聖なる過越の三日間を祝う準備をしたいと思います。「では、主が十字架につけられ、葬られ、復活した聖なる三日間について、注意深く考察してみなさい。これらの三つの神秘から、わたしたちはこの世において、十字架のしるしによって示されたことを実現する。だが、信仰と希望を通して、わたしたちは葬りと復活のしるしによって示されたことを実現する」(『書簡』[Epistola 55, 14, 24: Nuova Biblioteca Agostiniana, XXI/II, Roma, 1969, p. 477])。
 聖なる過越の三日間は、明日、聖木曜日の夜の「主の晩さん」のミサから始まります。けれども、通常、木曜日の午前に、もう一つの重要な典礼が行われます。すなわち、聖香油のミサです。この聖香油のミサで、すべての教区の司祭全員が、司教を囲んで、司祭の約束を更新し、また、洗礼志願者の油、病者の油、聖香油の油の祝福に参加します。わたしたちもそれを明日、このサンピエトロ大聖堂で行います。
 聖木曜日は、司祭職の制定とともに、聖体の秘跡によって、キリストがご自分を完全に人類にささげたことを記念します。聖書に記されているように、キリストは、ご自分が裏切られる晩、わたしたちに「新しい契約」(mandatum novum)を残しました。すなわち、兄弟が互いに愛し合うようにという契約です。そのためにキリストは、足を洗うという感動的な行為を行いました。足を洗うという行為は、身分の低い奴隷が行うことでした。さまざまな偉大な神秘を思い起こす、この特別な日の終わりには、聖体礼拝が行われます。それは、ゲツセマネの園での主の苦しみを思い起こすためです。福音書が語るように、イエスは大きな苦しみを感じながら、弟子たちに、自分とともに目覚めて祈り続けるように頼みました。「ここを離れず、わたしとともに目を覚ましていなさい」(マタイ26・38)。けれども、弟子たちは眠っていました。今日も主はわたしたちに語ります。「ここを離れず、わたしとともに目を覚ましていなさい」。しかし、今日もわたしたちは、現代の弟子たちが眠っているのをしばしば目にします。イエスにとって、それは見捨てられ、一人きりにされる時でした。続いて、真夜中に、イエスは逮捕され、カルワリオ(されこうべ)への苦しみの道が始まります。
 受難を中心とする聖金曜日は、大斎と小斎を行います。それは、十字架につけられたキリストを仰ぎ見るためです。諸教会では受難の朗読が行われ、ゼカリヤの預言のことばがあらためて告げ知らされます。「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」(ヨハネ19・37〔ゼカリヤ12・10〕)。
 わたしたちはまた、聖金曜日に、槍で刺し貫かれたあがない主の心に目を向けようとします。聖パウロが述べているように、このかたのうちに「知恵と知識の宝はすべて隠されている」(コロサイ2・3)からです。そればかりか、「キリストのうちには、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っている」(コロサイ2・9)からです。だから、使徒パウロは「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと」(一コリント2・2)心に決めることができました。まことに、十字架は、人の知識をはるかに超える愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」を示します。これは、愛が世界に広がることを表します。愛はあらゆる知識を超え、「神の満ちあふれる豊かさ」でわたしたちを満たします(エフェソ3・18-19参照)。
 十字架につけられたかたの神秘によって、「自らに逆らう神のわざは完全に実現します。こうして、イエスは、人間を高く上げて救うために、自分をささげました。イエスは最も徹底的なかたちで愛を示しました」(教皇ベネディクト十六世回勅『神は愛』12)。5世紀の大教皇聖レオはこう述べています。キリストの十字架は「あらゆる祝福の源であり、また、あらゆる祝福の理由である」(『主の受難についての講話8』6-8:PL 54, 340-342)。
 聖土曜日に、教会は、マリアと心を一つにしながら、主の墓の前にとどまって祈ります。主の墓には、神の子のからだが、あがないをもたらす創造のわざを終えて安息をとるために、静かに休んでいます。このあがないを、神の子はその死によって実現しました(ヘブライ4・1-13参照)。夜、復活の聖なる徹夜祭が始まります。この徹夜祭において、新受洗者とキリスト信者の全共同体は、キリストが復活し、死に打ち勝ったことを喜びながら、心から、喜びに満ちた復活祭の「栄光の賛歌」と「アレルヤ」を歌います。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。復活祭が実りをもたらすことができるために、教会は信者がこの日々にゆるしの秘跡に近づくことを求めます。ゆるしの秘跡は、いわばわたしたち一人ひとりの死と復活だということができます。初代教会では、聖木曜日に、司教の司式で、悔悛者のゆるしの式が行われました。
 もちろん歴史的な状況は違っていますが、ふさわしいしかたでゆるしの秘跡を受けて復活祭の準備をすることが、かならず守るべき務めであることは変わりません。なぜなら、ゆるしの秘跡は、わたしたちが自分の生活を新しく始めることを可能にするからです。そして、この新たな出発は、復活したかたの喜びと、復活したかたがわたしたちに与えるゆるしによって実現するからです。自分が罪人であることを自覚し、神のいつくしみに信頼しながら、キリストと和解させていただこうではありませんか。それは、キリストがその復活によってわたしたちに与えてくださる喜びをいっそう深く味わうことができるようになるためです。
 ゆるしの秘跡によってキリストがわたしたちに与えてくださるゆるしは、内的にも外的にも平和をもたらします。そして、このゆるしは、わたしたちを世における平和の使徒とします。残念ながら、世はあいかわらず分裂と苦しみ、また不正や暴力による悲惨な出来事に満ち、心からゆるし合うことによって和解し、再出発することができないでいます。
 しかし、わたしたちは、悪が最後に勝利を収めることがないことを知っています。勝利を収めるのは、十字架につけられて復活したキリストであり、キリストの勝利はいつくしみの愛の力によって示されるからです。キリストの復活によって、わたしたちはこう確信することができます。すなわち、世の闇がどれほど深くても、悪が最後に勝利を収めることはないのだと。この確信に支えられて、わたしたちは、より大きな勇気と熱意をもって、公正な世界を実現するために努力することができます。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。これが、皆様すべてに対するわたしの心からの願いです。どうか、信仰と信心をもって、間もなく始まる復活祭の準備をしてくださるようにお願いします。至聖なるマリアが皆様とともに歩んでくださいますように。マリアは、受難と十字架の時に神の子に従った後、その復活の喜びにあずかったからです。

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