教皇ベネディクト十六世の47回目の一般謁見演説 復活祭の意味について

4月19日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の47回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、復活の水曜日にあたって、復活祭の意味について解説しました。以下はその全訳です(原 […]

4月19日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の47回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、復活の水曜日にあたって、復活祭の意味について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、コロサイの信徒への手紙3章1-2節が朗読されました。謁見には60,000人を超える信者が参加しました。
演説の後、各国語で行われた祝福の最後に、教皇は、4月17日(月)にイスラエルのテルアビブで起きたテロを非難する次の呼びかけをイタリア語で行いました。「わたしは深い悲しみをもって今週の月曜日にイスラエルのテルアビブで起こったテロ攻撃の知らせを聞きました。わたしはこのテロ行為に対して強い非難を表明しなければならないと感じます。このような忌まわしい行為によって人びとの正当な権利を守ることはけっしてできません。平和の君である主がイスラエルとパレスチナの人びととともにいてくださいますように。こうして、彼らが悲惨な傾向に身を委ねず、天におられる同じ父の子として、自分たちを平和と安全のうちに生きる生活へと導く歩みを回復することができますように」。
テルアビブで起こった自爆テロでは、少なくとも9人が死亡しています。
この日、教皇ベネディクト十六世は教皇選出1周年を祝いました。前日の4月18日、教皇庁教皇公邸管理部は、教皇ベネディクト十六世の2005年4月の登位後1年間の教皇謁見(一般謁見と個別謁見)、典礼、「お告げの祈り」の参加者数(2006年4月19日分を含む)を発表しました。1年間の教皇行事への参加者数の合計は407万8,600人でした。一般謁見の参加者は112万1,500人、個別謁見の参加者は、38万4,900人、典礼への参加者は、69万7,200人、「お告げの祈り」の参加者は187万5,000人でした。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 復活節の喜ばしい雰囲気のうちに行われる今日の一般謁見の初めに、わたしは皆様とともに主に感謝したいと思います。主はちょうど1年前に、使徒ペトロの後継者として教会に奉仕するためにわたしを召し出しました。――喜んでくださる皆様に感謝します。拍手を有難うございます。――主は、わたしが必要とする助けをもって常にわたしを支えてくださいました。
 時のたつのはなんと早いことでしょう。枢機卿たちがコンクラーベのために集まり、わたしがまったく思いも及ばなかった驚くべきしかたで、亡くなった愛すべき神のしもべである偉大な教皇ヨハネ・パウロ二世の後継者としてわたしを選ぶことを望んでから、早くも1年がたちました。わたしは、わたしが教皇に選出された直後に、サンピエトロ大聖堂バルコニーで、この同じサンピエトロ広場に集まってくださった信者の皆様から最初に受けた衝撃を、感動をもって思い起こします。
 皆様とのこの出会いは、今もわたしの思いと心に影響を与え続けています。その後行われた多くの謁見も、わたしがペトロの奉仕職を公式に開始するための荘厳な就任式で述べたことばの深い真理を味わう機会をわたしに与えてくれました。「こうしてわたしもまた、あらためて確信をもってこういうことができます。わたしはひとりきりではありません。わたしは、ほんとうの意味で、けっしてひとりで担うことのできないことを、ひとりで担う必要はありません」(教皇ベネディクト十六世「就任ミサ説教(2005年4月24日)」『ヨハネ・パウロ二世からベネディクト十六世へ――逝去と選出の文書と記録』カトリック中央協議会、2006年、38頁)。
 そしてわたしは、この務め、この使命をひとりで担うことができないことをますます感じています。しかし、わたしはまた、皆様がわたしとともにこの使命を担ってくださっていることを感じています。こうしてわたしたちは、大きな交わりの中で、ともに主の使命を果たすために進むことができます。神と聖人が天から守ってくださることが、わたしにとってかけがえのない支えです。そして、親愛なる友人の皆様。皆様がともにいてくださることによってわたしは慰められます。わたしは常に皆様からゆるしと愛のたまものをいただいているからです。さまざまなしかたでわたしをそばで支えてくださるかたがた、また、愛情と祈りをもって遠くから霊的にわたしを覚えてくださるかたがたのすべてに、わたしはほんとうに心からの感謝を申し上げます。わたしは皆様一人ひとりに、わたしを支え続けてくださるようにお願いします。わたしが神の教会の柔和で堅固な牧者であることができる恵みを与えてくださるように、神に祈ってください。
 福音書記者ヨハネが述べているように、まさに復活の後、イエスは自分の群れを牧するようにペトロを招きました(ヨハネ21・15、23参照)。この主の弟子の小さなグループが数世紀を経て遂げた発展を、当時誰が人間的な意味で想像できたでしょうか。
 ペトロと使徒たちと、使徒の後継者たちは、エルサレムから始めて、後には地の果てに至るまで、勇気をもって福音の知らせを広めました。この福音の知らせの基本的で欠くことのできない核心は、過越の神秘です。すなわち、キリストの受難と死と復活です。
 教会はこの神秘を復活祭に記念します。復活祭の喜びは復活祭後の日々にも続きます。教会は、悪と死に打ち勝ったキリストの勝利を記念して、アレルヤを歌います。
 大教皇聖レオはこう述べています。「教会暦に従って復活祭を記念することによって、わたしたちは、一切の人間の時間を超えた永遠の祭りを思い起こします」。レオはさらにこう述べています。「わたしたちが実際に記念する復活祭は、将来の復活祭の影にすぎません。ですからわたしたちは、毎年行われる記念から、永遠に終わることのない記念へと向かうために、復活祭を記念します」。
 復活節の喜びは典礼暦年全体に広がります。この喜びは、特に主日に新たにされます。主日は、主の復活を記念するためにささげられた日だからです。主日は、いわば毎週行われる「小復活祭」です。聖なるミサにあずかるために集まった会衆は、信仰宣言の中で、イエスが三日目に復活したこと、そして「死者の復活と来世のいのちを待ち望む」ことを宣言します。
 このことによって、イエスの死と復活の出来事は、わたしたちの信仰の中心であり、このことを宣言することこそ、教会の建設と発展の基盤であることが示されています。
 聖アウグスチヌスははっきりとこう述べています。「親愛なる友人たち。キリストの復活を考えてみましょう。キリストの受難がわたしたちの古いいのちを表すのと同じように、キリストの復活は新しいいのちのための秘跡です。・・・・あなたがたは信じて、洗礼を受けました。古いいのちは十字架上で死んで亡きものとされ、洗礼によって葬られました。あなたがたが生きていた古いいのちは葬られ、新しいいのちが復活しました。よく生きてください。あなたがたは、死が訪れても死ぬことがないように、生きてください」(アウグスチヌス『説教』:Sermo Guelferb. 9, 3)。
 復活した主の現れについて述べた福音書の記述は、普通、招きをもって終わります。それは、すべての不信仰に打ち勝ち、出来事を聖書と照らし合わせ、イエスが死を超えて永遠に生きていることを告げ知らせなさいという招きです。イエスは、彼を信じるすべての人にとって、新しいいのちの源だからです。
 このことは、たとえば、マグダラのマリアの場合に起こりました(ヨハネ20・11-18参照)。マリアは墓が空になっているのを見つけ、すぐに主のからだが取り去られたのではないかと恐れました。その後、主はマリアの名を呼びました。そのときマリアの中で深い変化が起こりました。マリアの悲しみととまどいは、喜びと熱意へと変わったのです。マリアはただちに使徒たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」(ヨハネ20・18)と彼らに告げました。
 そうです。復活したイエスと出会うことによって、人は内側から変わります。復活した主を「信じる」ことなしに、このかたを「見る」ことはできません。わたしたちは祈りたいと思います。主がわたしたち一人ひとりの名を呼んでくださいますように。こうしてわたしたちを回心させ、わたしたちの心を開いて、信仰をもって「見る」ことができるようにしてくださいますように。
 信仰は、復活したキリストと個人的に出会うことから生まれます。こうして信仰は、勇気と自由をもって世に次のように大声で告げるようわたしたちを促します。「イエスは復活し、永遠に生きておられます」。
 あらゆる時代において、また現代においても、主の弟子の使命は次のことです。聖パウロはこうわたしたちに勧めています。「さて、あなたがたは、キリストとともに復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。・・・・上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」(コロサイ3・1-2)。これは、自分の日々の仕事をやめ、地上のことがらをないがしろにしなさいということではありません。むしろ反対に、それは、すべての人間の活動を、超自然的な息遣いをもってあらためて生きるということです。復活したキリストが永遠に生きておられることを、喜びをもって告げ知らせ、あかしするということです(ヨハネ20・25、ルカ24・33-34参照)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。独り子の過越によって、神はご自身と、その死の力に打ち勝って勝利をもたらす力と、三位一体の愛の力とを、完全なしかたで現してくださいました。おとめマリアは、御子の受難と死と復活に深く結ばれ、十字架のもとですべての信じる者の母となりました。このマリアの助けによって、わたしたちが、わたしたちの心を変えて、復活の喜びを完全に味わわせてくれる、この愛の神秘を悟ることができますように。こうして、わたしたちも復活の喜びを第三千年期の人びとに伝えることができますように。

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