教皇ベネディクト十六世の48回目の一般謁見演説 時間における交わりとしての聖伝

4月26日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の48回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」について […]

4月26日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の48回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の5回目として、「時間における交わりとしての聖伝」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、マタイによる福音書28章18-20節が朗読されました。謁見には50,000人の信者が参加しました。
演説の後、各国語で行われた祝福の終わりに、教皇はイタリア語で、20年前の1986年にウクライナ(当時ソビエト連邦共和国)で起こったチェルノブイリ原子力発電所事故を思い起こして、次のように述べました。「今日わたしは、20年前にチェルノブイリ原子力発電所で起きた悲劇的な事故を思い起こします。この日にあたって、わたしは、この20年間、さまざまな家庭、団体、国家機関、そしてキリスト教共同体が、この痛ましい事故の被害に遭った人びと、特に子どもの受け入れと世話に努めてこられたことに感謝したいと思います。わたしたちはあらためて、広範囲に及ぶ事故の犠牲者と、身体に事故の後遺症の残る人びとのために祈りたいと思います。主が人類の運命に責任をもつ人びとを照らし、彼らが人類と自然の必要を重んじながら、力を合わせて、平和への奉仕のために、あらゆる努力を注ぐことができますように」。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 皆様のご好意に感謝します。すこし前に始まった新しい連続講話の中で、わたしたちは主が望んだ最初の教会の計画を知ろうと努めています。それは、教会という大きな交わりの中にわたしたちがいること、すなわちわたしたちがキリスト者として生きていることをよりいっそう理解することができるようになるためです。これまでわたしたちにわかったのは、教会の交わりは聖霊によって生まれ、支えられていること、またそれが使徒の奉仕職によって守られ、育まれていることでした。また、わたしたちが教会と呼んでいるこの交わりは、ある特定の歴史的時代のすべての信者だけでなく、すべての時代、すべての世代に及びます。それゆえわたしたちは二つの意味での普遍性の中に置かれています。一つは、同時代の普遍性――すなわち、わたしたちが世界のあらゆる地域の信者と結ばれているということ――です。もう一つは、いうならば、時代を超えた普遍性――すなわち、あらゆる時代がわたしたちとつながっているということ――です。過去の信者と、未来の信者が、わたしたちとともに唯一の大きな交わりを作っています。
 聖霊は、歴史の中に神秘が生き生きと現存することを保証します。聖霊によって、神秘は確実なしかたで世々を通じて実現するからです。教会の始まりの時代に、使徒の共同体は、キリストの復活を経験しました。弁護者である聖霊によって、後の時代の人びとも常に同じ経験をすることができるようになります。それは、時間の中を旅する神の民の信仰と礼拝と交わりの中で、この経験が伝えられ、再現されるためです。こうして、わたしたちは今、この復活節の間、復活した主との出会いを生きています。わたしたちは、過去に復活した主と出会うだけでなく、今の時代の教会の信仰と典礼と生活の交わりの中で、この主と出会います。
 このような救いの恵みの伝達は、聖霊の力によって、キリスト教共同体が最初の共同体を常に再現することを可能にします。この伝達を行うのが、教会の使徒伝承です。これが使徒伝承と呼ばれるのは、この伝承が、使徒と最初の時代の弟子の共同体のあかしから生まれたからです。また、この伝承が、聖霊の導きのうちに、新約聖書の文書と、秘跡による生活と、信仰生活を通して与えられたからです。そして、教会が常にこの伝承――それは常にイエスのたまものとして現実に現存します――を、使徒の奉仕職の途切れることのない継承を通じて、自らの基盤また規範と考えるからです。
 その歴史的な生涯において、イエスは自分の使命をイスラエルの家だけに限定しました。しかし、イエスは、自分のたまものがイスラエルの人びとだけでなく、全世界とすべての時代のために与えられたものであることを示しました。そこで復活した主は、使徒たちに(ルカ6・13参照)、すべての民を自分の弟子にするという務めをはっきりと委ねました。そして主は、世の終わりまで、ともにいて、助けてくださることを約束しました(マタイ28・19-20参照)。
 救いがすべての人のためのものとなるために、何よりも、キリストが栄光のうちに来られるときまで、歴史の中で途切れることなく復活の記念を行うことが求められます(一コリント11・26参照)。使徒は、終わりの日のイスラエルのかしらです(マタイ19・28参照)。この使徒の奉仕職を通して、新約の民の生活全体の中で、主イエスの救いをもたらす現存を実現するのは誰でしょうか。答えははっきりしています。それは、聖霊です。ルカによる福音書の続きとして書かれた使徒言行録は、キリストが遣わす聖霊と、キリストと聖霊によって集められた共同体の間の結びつきを生き生きと述べています。
 弁護者である聖霊の働きによって、使徒とその後継者は、時間の中で、復活した主から与えられた使命を果たすことができます。「あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る」(ルカ24・48-49)。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1・8)。そして、初めは信じがたいものであったこの約束は、すでに使徒の時代に実現されます。「わたしたちはこの事実の証人であり、また、神がご自分に従う人びとにお与えになった聖霊も、このことをあかししておられます」(使徒言行録5・32)。
 ですから、使徒が手を置いて祈ることによって、新たな福音の宣教者を聖別し、派遣するのも、同じ聖霊です(たとえば使徒言行録13・3以下、一テモテ4・14参照)。興味深いことに、ある箇所ではパウロが長老たちを任命したと述べられ(使徒言行録14・23参照)、ある箇所では聖霊が群れの牧者を任命したと述べられているのに気づきます(使徒言行録20・28参照)。
 このようなしかたで、聖霊のわざとパウロのわざは深く結ばれていました。教会生活のために重大な決定が行われるとき、聖霊はともにいて教会を導きます。このように聖霊がともにいて導いてくださることは、特にエルサレムでの使徒会議で経験されました。会議はその結びのことばで次のように確認しています。「聖霊とわたしたちは・・・・決めました」(使徒言行録15・28)。教会は、「主を畏れ、聖霊の慰めを受け」(使徒言行録9・31)ながら成長し、歩みます。
 主イエスのその民の中における生き生きとした現存が、絶えず実現すること――そのことは、聖霊によってもたらされ、使徒の奉仕職と兄弟愛を生きる共同体を通して教会の中で表されます――。これが、神学的な意味で「聖伝」ということばによって表そうとしていることです。「聖伝」は、初めに使徒に与えられたことをただ物理的に伝えることだけではありません。「聖伝」は、十字架につけられて復活した主イエスを生き生きとしたしかたで現存させることです。主イエスは、聖霊のうちに、主が集めた共同体とともにいて、それを導くからです。
 「聖伝」は、歴史の行程を通じて、正統な司牧者を囲む信者の交わりです。聖霊はこの交わりを養い、最初の弟子の共同体が生きた、使徒の信仰体験と、教会における現在のキリスト体験とのつながりを保証します。
 いいかえると、「聖伝」は、教会の有機的な連続性です。教会は、聖霊という基盤の上に建てられた、父なる神の聖なる神殿だからです。「したがって、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエスご自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたもともに建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」(エフェソ2・19-22)。
 使徒とその後継者の奉仕職によって守られた「聖伝」のおかげで、キリストのわき腹から流れ出たいのちの水と、救いをもたらす血は、すべての時代の人びとに及びます。こうして「聖伝」は救い主の永遠の現存となります。救い主は、聖霊のうちに、教会の奉仕職を通じて、御父の栄光に向けて、わたしたちと出会い、わたしたちをあがない、聖化するからです。
 ですから、終わりにまとめとして、わたしたちはこういうことができます。「聖伝」は、物やことばを伝えることでもなければ、死んだ物を集めることでもありません。「聖伝」は、わたしたちを源泉と結びつける、生きた川です。この生きた川の中には、源泉が常に現存します。この大河はわたしたちを永遠の港へと導きます。この生きた川の中で、初めに朗読された主のことばが常に新たに実現します。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28・20)。

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