教皇ベネディクト十六世の50回目の一般謁見演説 使徒継承

5月10日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の50回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の7回目として、「使徒継承」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、コリントの信徒への手紙一15章1-5節が朗読されました。謁見には50,000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 前回の謁見でわたしたちは教会の聖伝について考察しました。そして、教会の聖伝とは、イエスのことばと生涯がその民の中に永続的に現存することであることがわかりました。しかし、ことばが示されるために、教会は人とあかしを必要とします。こうして次のような相互の関係が生まれます。一方で、ことばは人を必要とします。他方で、人とあかしは、ことばと関連づけられます。このことばは、その人に委ねられたものであって、その人が考え出したものではないからです。このように、内容――神のことばと主の生涯――と、内容を伝える人とが相互に関係していることが、教会の構造の特徴です。今日わたしたちはこの教会の人格的な側面について考察したいと思います。
 教会を始めたのは主です。すでに見たように、主は、神の民の未来を代表する人びととして、十二人を呼び寄せました。主から与えられた命令に従って、十二人はまず、主の昇天の後、ユダの代わりにマティアを選んで十二人の数を満たしました(使徒言行録1・15-26参照)。後に十二人は、自分たちの奉仕職を続けるために、自分たちに委ねられた任務のために次第に他の人びとを加えました。
 パウロは復活した主自身から招かれました(ガラテヤ1・1参照)。しかしパウロは、主の招きによって使徒とされたにもかかわらず、自分の福音を十二人の福音と照らし合わせました(同1・18参照)。こうしてパウロは、自分が受けたものを伝えようと努めながら(一コリント11・23、15・3-4参照)、宣教の務めを行う際には、使徒たちや他の人びと、たとえばバルナバと協力しました(ガラテヤ2・9参照)。
 使徒たちの置かれた初めの状況において行われたのは、復活した主からの招きと派遣でした。ちょうどそれと同じように、これに続いて、すでに使徒の奉仕職として定められたわざを行うために、聖霊の力によって、他の人びとにも呼びかけと招きが行われました。このようなしかたで、使徒の奉仕職が引き継がれていきました。この使徒の奉仕職は、後に使徒たちの第二世代の頃から、「エピスコペー」、すなわち司教の奉仕職と呼ばれるようになります。
 理解の助けとなるために、この「司教」ということばの意味を簡単に説明するとよいだろうと思います。イタリア語の「ヴェスコヴォ(司教)」は、ギリシア語の「エピスコポス」に由来します。「エピスコポス」は、天上の幻を見る人、心でものを見る人を意味します。そのため聖ペトロはペトロの手紙一の中で、主イエスを「魂の牧者であり、監督者」(一ペトロ2・25)と呼んでいます。この魂の監督者であり、牧者である、第一の「エピスコポス」である主の模範に従って、後に使徒の後継者も(複数形で)「エピスコポイ(監督・司教)」と呼ばれました。「エピスコポイ」に委ねられたのが、「エピスコペー(司教職)」の務めです。この司教の特別な務めは、その最初のあり方から次第に発展していき、ついに司教、司祭、助祭の三つの職務の形をとりました。この形はすでに2世紀の初めにアンチオケのイグナチオによってはっきりと述べられています(『イグナチオの手紙――マグネシアのキリスト者へ』6・1:PG 5, 668)。この発展は、神の霊に導かれて行われたものです。神の霊は、教会が使徒継承の真正な形を識別するのを支えるからです。こうして、最初の共同体にも存在した、さまざまな経験と、たまものと奉仕職のさまざまな形態の中から、使徒継承のいっそう優れた形が定められたのです。
 このようなしかたで、司教職の継承は、使徒の奉仕職の連続性として示されます。それは、使徒伝承、すなわち、主からわたしたちに委ねられたことばと生涯を守るための保証だからです。司教団と使徒の最初の共同体のつながりは、何よりもまず、歴史的な連続性として理解されます。すでに見たように、十二人にまずマティアが、次いでパウロが、そして後にバルナバ、そして他の人びとが加わりました。こうして使徒の第二世代、第三世代において司教の奉仕職が形成されました。ですから、連続性はこうした歴史的な連鎖によって表されるのです。
 そして、このような継承の連続性が、教会共同体において、キリストを囲んでキリストによって集められた使徒団を守るための保証となります。わたしたちはまず、継承の連続性を、奉仕者の歴史的な連続性と考えました。しかし、この継承の連続性を、同時に霊的な意味でも理解しなければなりません。奉仕職における使徒継承は、聖霊のわざと伝達が行われる特別な場だと考えられるからです。
 この確信をはっきりとした形で表しているのが、たとえばリヨンのイレネオ(2世紀後半)の次のテキストです。「さて、全世界で使徒たちの伝承は明らかであり、真なることを見たいと思う人にとって、それはすべての(地域)教会の中で観ることができる。そしてわたしたちはそれらの教会で、使徒たちによって司教として立てられた人びと、またその後継者をわたしたち(の世代)に至るまで(ずっと)数え上げることができる。・・・・(使徒)たちは自分たちがその教えるという役割を渡し、後継者として残したその人びとが、すべての人びとのうちで、きわめて完全で、とがめられるところのない人びとであるようにと望んだのだからである。(後継者)たちが正しく行うなら最大の益があり、(彼らが)脱落するならもっともはなはだしい禍になる(からである)」(イレネオ『異端反駁』Adversus haereses, III, 3, 1: PG 7, 848〔邦訳、小林稔訳、『キリスト教教父著作集3/Ⅰ エイレナイオス3 異端反駁Ⅲ』教文館、1999年、8-9頁〕)。
 それからイレネオは、この使徒継承の網の目が主のことばを守るための最大の保証であることを示そうとして、一つの教会のみを数え上げます。すなわち、「最大にして最古、またすべての人びとに知られ、もっともはえある二人の使徒ペトロとパウロによってローマに創立され、設立された教会」です。それは、人びとに告げ知らされた信仰の聖伝が、使徒を通して、また司教たちの継承を通してわたしたちにまで至っていることを強調するためです。
 このようなしかたで、イレネオにとっても、普遍教会にとっても、ローマ教会の使徒継承は、使徒の信仰が途切れることなく伝えられてきたことのしるし、基準、また保証となります。「全教会、すなわちあらゆる地域の信仰者は、この(ローマの)教会のより優れた起源のゆえに(propter potiorem principalitatem)、これと一致すべきである。そのなか(ローマ教会)では・・・・使徒たち以来の伝承が常に守られているからである」(イレネオ『異端反駁』Adversus haereses, III, 3, 2: PG 7, 848〔上掲邦訳、9頁〕)。
 使徒継承は、ローマ教会の使徒継承との交わりに基づいて確かめられます。それゆえ、使徒継承は、それぞれの教会が共通の使徒の信仰の聖伝にとどまり続けていることの基準です。共通の使徒の信仰は、この使徒継承という水路を通して、源泉からわたしたちにまで達することができたからです。「以上の順序と継承により、使徒たちに由来する教会の中の伝承と真理の使信とがわたしたちにまでたどりついている。そしてこの(継承関係がはっきりしている)ことは、一つの同じ、生命を与える信仰が、使徒たちから今に至るまで教会の中で保たれ、真理のうちに伝えられているものであることのきわめて完全な証拠である」(ibid., III, 3, 3: PG 7, 851〔上掲邦訳、10-11頁〕)。
 古代教会のこの証言によれば、教会の交わりの使徒性は、使徒たちの教えと実践を忠実に守ることのうちにあります。使徒たちを通じて、教会とキリストとの歴史的かつ霊的なつながりが保証されるからです。司教の奉仕職における使徒継承は、使徒のあかしが忠実に伝達されることを保証するための手段です。
 主イエスと最初の教会の関係において使徒たちが果たした役割を、最初の教会と現代の教会の関係において、奉仕職の継承が、類比的な意味で果たします。奉仕職の継承は、たんなる物理的な連鎖ではありません。それどころか、奉仕職の継承は、民のかしらである主イエスを現存させるために、聖霊が用いる歴史的な手段なのです。この聖霊を通して、司教の按手と祈りによって、奉仕職のための叙階が行われるからです。
 ですから、使徒継承を通じて、キリストはわたしたちのところに来られます。キリストは、使徒とその後継者のことばを通じてわたしたちに語りかけます。キリストはこれらの人びとの手を通して、秘跡のうちに働きます。これらの人びとのまなざしを通して、キリストのまなざしがわたしたちを包み、わたしたちに、自分が愛されていること、自分が神のみ心に迎え入れられていることを感じさせてくれます。初めのときと同じように、今日も、キリストご自身がわたしたちの魂の牧者となり、監督者となってくださいます。わたしたちはこのキリストに、大きな信頼と感謝と喜びをもって従うのです。

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