教皇ベネディクト十六世の60回目の一般謁見演説 使徒ヨハネの著作

8月9日(水)午前10時から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の60回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講 […]

8月9日(水)午前10時から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の60回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の16回目として、「使徒ヨハネの著作」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ヨハネの手紙一4章7-9節が朗読されました。
演説の後、各国語で行われた祝福の終わりに、教皇はイタリア語で、中東の平和のために祈ることを重ねて呼びかけました。教皇の呼びかけは以下の通りです。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしの悲しい思いは、いま一度、愛する中東地域に向かいます。続いている悲惨な紛争に関して、わたしは、教皇パウロ六世が1965年10月に国連で述べたことばを繰り返したいと思います。パウロ六世はこう述べています。『今後、けっして、一国は他国に抗争対立してはなりません。・・・・もし皆様が兄弟であることを望むならば、武器をその手から捨てなければなりません』。停戦と、紛争に対する公正で永続的な解決に最終的に達するための努力が続く中で、わたしは前任者の偉大な教皇ヨハネ・パウロ二世とともに、繰り返して述べたいと思います。事態の打開を可能にするには、理性と善意、他者への信頼、締結した契約の実施、責任者双方の協力が、優先されなければなりません(教皇ヨハネ・パウロ二世「外交使節団への演説」2003年1月13日参照)。このヨハネ・パウロ二世のことばは、現代においても、すべての人にとってきわめて有効です。わたしは、わたしたちの願う平和のたまものが与えられるように、ますます祈ってくださることを、すべての人にあらためてお願いいたします」。
イスラエルと、レバノンのシーア派武装組織ヒズボラの戦闘をめぐっては、その後、8月11日(金)に国連安全保障理事会で停戦決議が全会一致で採択されました。イスラエルとレバノンは同決議を受け入れ、グリニッジ標準時8月14日(月)午前5時(現地時間同日午前8時、日本時間同日午後2時)に停戦が発効しました。しかし7月12日から1か月以上続いた戦闘で、レバノン側で少なくとも1076人、イスラエル側で144人の死者が出ています。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 休暇の前に、わたしは十二使徒についてのささやかな描写を開始しました。使徒たちはイエスとともに旅する同伴者であり、イエスの友でした。また、使徒たちがイエスとともにした旅路は、ガリラヤからエルサレムへの外的な意味での旅路だけではありませんでした。それは内的な旅路でもありました。この内的な旅路の中で、使徒たちはイエス・キリストへの信仰を学びました。それはたやすいことではありませんでした。使徒たちもわたしたちと同じような人間だったからです。
 しかし、だからこそ、すなわち、イエスとともに旅する同伴者として、イエスの友として、苦労して旅の中で信仰を学んだからこそ、使徒たちはわたしたちの導き手ともなるのです。使徒たちは、わたしたちがイエス・キリストを知り、イエス・キリストを愛し、イエス・キリストを信じるための助けとなってくれるのです。
 わたしはすでに十二使徒のうちの四人についてお話ししました。シモン・ペトロ、その兄弟アンデレ、聖ヨハネの兄弟ヤコブ、そして、「小ヤコブ」として知られる、もう一人のヤコブです。「小ヤコブ」が書いた手紙は、新約聖書の中に収められています。またわたしは、福音書記者ヨハネについての話を始めました。そして、休暇の前の最後の講話の中で、わたしは使徒ヨハネの特徴を示す基本的なデータを集めました。
 そこでわたしは、ヨハネの教えの内容に注意を向けたいと思います。そのため、わたしたちが今日検討したい文書は、ヨハネの名前で書かれた福音書と手紙です。
 ヨハネの著作から示される、一つの特徴的なテーマは、愛です。「神は愛です(Deus caritas est)。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(一ヨハネ4・16)。わたしが最初の回勅をこの使徒ヨハネのことばで始めようと望んだのは、偶然ではありません。他の宗教の中にこのようなテキストを見いだすことはきわめて困難です。そこで、こうした表現は、真の意味でキリスト教に固有な要素へとわたしたちを向かわせます。
 もちろん、ヨハネは、愛について語った、唯一のキリスト教的著作家ではありません。愛は、キリスト教をキリスト教たらしめる本質的な要素なので、新約聖書の著者は皆、強調点の違いはあっても、愛について語っています。
 わたしたちが今、ヨハネにおける愛というテーマを考察しようとするのは、ヨハネが愛の主な特徴について、繰り返し、また明確に述べているためです。だからわたしたちはヨハネのことばに信頼を置くのです。確実にいえることが一つあります。すなわち、ヨハネは、愛がいかなるものであるかについて、抽象的、哲学的に論じてもいなければ、神学的に論じてさえいないということです。
 たしかに、ヨハネは理論家ではありません。実際、真の愛は、本来、けっしてたんに思弁的なものでありえません。それは生身の人間に対して、直接、具体的に、また目に見えるしかたで示されます。さて、使徒であり、イエスの友であるヨハネは、愛が何から成るかを――より適切にいうなら、キリスト教的な愛のさまざまな段階をわたしたちに示してくれます。キリスト教的な愛は、三つの要素によって特徴づけられる、一つの動きです。
 第一の要素は、愛の起源と関わります。ヨハネはこれを神の内に見いだします。そして、「神は愛です」(一ヨハネ4・8、16)というに至ります。ヨハネは、新約聖書の著者の中で、ある意味で、神を定義した唯一の人です。たとえばヨハネは、「神は霊である」(ヨハネ4・24)、また、「神は光である」(一ヨハネ1・5)といいます。ここでヨハネは、鋭い洞察をもって、「神は愛です」と宣言します。
 注意していただきたいと思います。ここでいわれているのは、ただ「神は愛する」ということでもなければ、いわんや「愛は神である」ということでもありません。いいかえると、ヨハネは神の行うわざを述べるにとどまらず、その根源にまで向かったのです。
 さらにヨハネは、あらゆる愛に神的性格を与えようとしたのでもなければ、まして非人格的な愛に神的性格を与えようとしたのでもありません。ヨハネは愛から神に向かうのではなく、直接、神に向かいます。それは、愛の無限な広がりによって、神のあり方を定義づけるためです。
 このようにしてヨハネがいおうとしたのは、このことです。本質的な意味で、神を神たらしめるものは、愛です。ですから、神の行うあらゆるわざは、愛から生まれ、愛を特徴としています。神が行うあらゆることは、愛のゆえに、また愛をもってなされます。たとえわたしたちがかならずしも常にそれが愛であることを、それも真の愛であることをすぐに理解できなくてもです。
 しかしながら、ここでさらに一歩進んで、明らかにしなければならないことがあります。すなわち、神はご自分の愛を具体的に示すために、イエス・キリストという人格を通して人間の歴史の中に入られたということです。イエス・キリストは、わたしたちのために受肉し、死んで、復活しました。
 これが、神の愛を神の愛たらしめる、第二の要素です。神はことばで愛を宣言するにとどまりませんでした。むしろ、わたしたちはこういうことができます。神は真の意味で愛に取り組み、自らの身をもって愛を「あがなった」のです。
 まさにヨハネが述べている通り、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を(すなわち、わたしたちすべてを)愛された」(ヨハネ3・16)。こうして、人類に対する神の愛は、イエス自身の愛の内に、具体的に示されました。
 ヨハネはまた、こう述べています。イエスは「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13・1)。この自らをささげる、完全な愛のおかげで、わたしたちは罪から根本的にあがなわれました。聖ヨハネがさらに次のように述べている通りです。「わたしの子たちよ、・・・・たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」(一ヨハネ2・1-2。一ヨハネ1・7参照)。
 こうして、わたしたちに対するイエスの愛が、わたしたちのもとにもたらされました。イエスは、わたしたちの救いのために自らの血を流したのです。キリスト信者は、このような「限りのない」愛を少しでも観想するなら、これにふさわしくこたえるためにどうすればよいかと、思わずにはいられません。わたしたちは皆、絶えず繰り返して、このことを自らに問いかけなければならないと、わたしは思います。
 このような問いかけが、愛の働きの第三の要素へとわたしたちを導きます。わたしたちは、わたしたちに先立ち、わたしたちをはるかに超える愛を与えられることにより、この愛に積極的にこたえる責務へと招かれます。ふさわしく行うならば、このようなこたえが、愛に対する唯一の応答となりうるからです。
 ヨハネは「掟」について語ります。実際、ヨハネは、イエスが次のように語ったといっています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)。
 イエスがいおうとしたことの、どこに新しさがあるのでしょうか。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19・18。マタイ22・37-39、マルコ12・29-31、ルカ10・27参照)。これはすでに旧約で求められていたことですし、他の福音書にも書かれています。イエスがこのことを繰り返すだけでは満足しなかったことの内に、イエスのいおうとしたことの新しさがあります。
 昔の律法においては、規範となる基準は人間に置かれていました(「自分自身を愛するように」)。これに対して、ヨハネが述べている掟においては、イエスは自分の人格そのものを、わたしたちの愛の理由と規範として示します。「わたしがあなたがたを愛したように」。
 このようにして、愛は、愛自身の内にキリスト教としての新しさをもつことによって、真の意味でキリスト教的なものとなります。それは二つの意味でです。すなわち、愛はすべての人に区別なく向かわなければならないからです。また、何よりも、愛は、極みまでまっとうしなければならないからです。愛には、制約がないことのほかに、何の制約もありません。
 「わたしがあなたがたを愛したように」というイエスのことばは、わたしたちへの招きとなると同時に、わたしたちに不安も与えます。この目標は、キリストのようになることだからです。それは達成不可能なことのように思われます。しかし同時に、それは刺激ともなります。わたしたちは、自分が実現できたことに安住することができなくなるからです。この刺激は、わたしたちが現状に満足することを許しません。むしろ、この目標に向けて、常に歩み続けるよう、わたしたちを促します。
 『キリストにならいて』は霊性の黄金の書です。この小さな本は中世後期に書かれました。『キリストにならいて』には、これまで述べたテーマについて、次のように述べられています。「イエスへの貴い愛は、大きな仕事をするように促し立て、いつもより完全な徳を望むよう激励する。愛はいっそう高くなるのを望み、どんなに低いところにも引き止められるのをいやがる。愛は自由であることを望み、あらゆるこの世の執着をも捨てようとする。・・・・なぜならば、愛は神から生まれ、あらゆる被造物にもまさって、神においてのほかは憩うことがないからである。愛する者は飛行し、走り、歓喜し、自由であって拘束されない。彼はすべてにすべてを与え、すべてにおいてすべてを所有する。その故は、すべての善が流れ出る源なる唯一者、あらゆるものにも優る唯一者において、彼は憩うからである」(トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』第3巻第5章〔呉茂一・永野藤夫訳、講談社、1975年、131-132頁〕)。
 ヨハネが述べた「新しい掟」について、これ以上に優れた注解がありうるでしょうか。御父に祈りましょう。たとえいつも不完全にではあっても、わたしたちがこの新しい掟を熱心に実践することができますように。こうしてわたしたちがこの掟を、自分たちが歩む中で出会う人びとに伝えることができますように。

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