教皇ベネディクト十六世の2006年9月17日の「お告げの祈り」のことば 十字架称賛と悲しみの聖母の祝日にあたって

教皇ベネディクト十六世は、9月17日(日)正午(日本時間同日午後7時)に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、雨の中、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べた […]

教皇ベネディクト十六世は、9月17日(日)正午(日本時間同日午後7時)に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、雨の中、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
教皇は最初に、9月9日(土)から14日(木)まで行われたドイツ・バイエルンへの司牧訪問を振り返るとともに、12日(火)にレーゲンスブルク大学で行った講演に対するイスラームの人びとからの反応について、自ら遺憾の意を表明しました。教皇の講演での発言に関しては、すでに14日に教皇庁広報部から、16日(土)に教皇庁国務省長官から声明が発表されています。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 最近わたしが行ったバイエルンへの使徒的訪問は、深い霊的な体験でした。この訪問は、わたしがよく知っている土地へのさまざまな個人的な思い出と、現代に向けて効果的に福音を告知するための司牧的な取り組みとを一つにまとめたものでした。
  わたしは、神が与えてくださった内的な慰めについて、神に感謝するとともに、この司牧訪問の成功のために尽力されたすべての人びとにも感謝したいと思います。慣例に従い、わたしはこの司牧訪問について、今週の水曜一般謁見で詳しくお話しします。
  この時にあたり、わたしはただこのことを付け加えたいと思います。わたしは、レーゲンスブルク大学でのわたしの講演の中の短い表現が、イスラーム教徒の感情を害するものと考えられたために、いくつかの国で反応を引き起こしたことについて、きわめて遺憾に思います。これらの表現は、中世のテキストの引用にすぎず、けっしてわたしの個人的な考えを表したものではありません。昨日、国務省長官の枢機卿がこの件について声明を発表しました。枢機卿はこの声明の中で、わたしのことばの真意を説明しています。この声明が、人びとの気持を鎮め、わたしの講演が真の意味でいおうとしたことを明らかにするために役立つことを希望しています。わたしの講演は、その全体でもって、深い相互の尊重とともに、開かれた心からの対話を行うことへの招きでしたし、今もそのための招きとなっています。
 さて、マリアへの祈りを唱える前に、わたしは、最近行われた二つの重要な祝日に注意を向けたいと思います。すなわち、9月14日に祝われた十字架称賛の祝日と、その翌日に祝われた悲しみの聖母の記念日です。この二つの祝日は、十字架の伝統的な姿を目に見えるかたちでまとめています。福音書記者ヨハネの記述は、十字架のもとにおとめマリアがいたことを示します。ヨハネは、イエスの死に際してイエスとともにとどまった、ただ一人の使徒です。
 ところで、十字架の「称賛」とは何を意味するのでしょうか。恥ずべき処刑の道具を敬うことは、もしかすると人をつまずかせるのではないでしょうか。使徒パウロはいいます。「わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものです」(一コリント1・23)。しかしながら、キリスト信者が称賛するのは、すべての十字架ではなく、イエスがその犠牲によって聖なるものとした、深い愛の結果とあかしとしての十字架です。
 キリストは十字架上で、人類を罪と死の束縛から解放するために、自らのすべての血を注ぎました。そのために、十字架は、呪いのしるしから、祝福のしるしへと、死を表す象徴から、最高の愛を表す象徴へと造り変えられました。この愛は、憎しみと暴力に打ち勝ち、不滅のいのちを生み出します。典礼はこう歌います。「わたしたちの唯一の希望である十字架よ」(O Crux, ave spes unica!)。
 福音書記者は、十字架のそばにマリアが立っていたと述べます(ヨハネ19・25-27参照)。マリアの悲しみは、御子の悲しみと一つのものです。それは信仰と愛に満ちた悲しみです。カルワリオ(されこうべの場所)で、おとめマリアは、自らの「おことば通り、この身に成りますように」(フィアット)を御子の「御心のままに行ってください」(フィアット)と結びつけることによって、救いをもたらすキリストの悲しみの力にあずかりました。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。霊的な意味で悲しみの聖母と結ばれながら、神に対してあらためて「はい」といおうではありませんか。神はわたしたちを救うために十字架の道を選ばれました。それは世の終わりまで働き続ける、偉大な神秘です。この神秘はまた、わたしたちの協力を求めます。マリアの助けによって、わたしたちが日々十字架を担い、イエスに忠実に従って、従順と犠牲と愛の道を歩むことができますように。

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