教皇ベネディクト十六世の66回目の一般謁見演説 使徒トマス

9月27日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の66回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の20回目として、「使徒トマス」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ヨハネによる福音書20章26-29節が朗読されました。謁見には、30,000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 イエスによって直接選ばれた十二使徒についての考察を続けます。今日わたしたちは、トマスに注意を向けたいと思います。トマスは新約聖書の四つの名簿の中に常に現れます。トマスは、最初の三つの福音書ではマタイと並んで置かれますが(マタイ10・3、マルコ3・18、ルカ6・15参照)、使徒言行録の中ではフィリポと並んでいます(使徒言行録1・13参照)。トマスという名前は、ヘブライ語の語根の「タ・アム」(ta’am)に由来します。「タ・アム」は「双子」を意味します。実際、ヨハネによる福音書は時としてトマスを「ディディモ」というあだ名で呼びます(ヨハネ11・16、20・24、21・2参照)。「ディディモ」はギリシア語でまさに「双子」を意味します。この呼び名のいわれは明らかではありません。
 とりわけ第四福音書は、トマスの人となりの重要な特徴を知るためのいくつかの情報をわたしたちに伝えています。その第一は、トマスが他の使徒たちを促したことです。それは、イエスがその生涯の危険なときにあたって、ラザロを復活させるためにベタニアに行こうと決意したときのことです。ベタニアに行けば、危険なエルサレムに近づくことになりました(マルコ10・32参照)。このとき、トマスは仲間の弟子たちにこういいました。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハネ11・16)。師であるかたに従おうとするトマスの決意はまことに模範的です。それはわたしたちに貴重な教訓を与えます。すなわち、トマスの決意は、心から進んでイエスと一致しようとする態度を表します。トマスは、イエスと運命をともにし、イエスとともに最高の死の試練にあずかることまでも望みました。
 実際、もっとも大事なことは、イエスからけっして離れないでいることです。福音書が「従う」という動詞を用いるのは、イエスが向かうどんなところにも、弟子は行かなければならないことを表すためです。こうして、キリスト信者として生きるとは、イエス・キリストとともに生きることだと定義されます。それは、イエスとともに過ごす生き方にほかなりません。聖パウロも同じようなことを述べています。パウロは次のようにいって、コリントのキリスト者を力づけました。「あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死をともにしているのです」(二コリント7・3)。使徒とキリスト者の間に見られることは、何よりもまず、キリスト者とイエス自身の間の関係にいえることです。両者は生死をともにします。キリストがわたしたちの心の中におられるように、わたしたちもキリストの心の中にいます。
 トマスの第二の発言は、最後の晩餐の中で記されています。このとき、イエスは、ご自分が間もなく去っていくことを予告しながら、こういいます。わたしは弟子たちのために場所を用意しに行く。それは、わたしのいるところに、彼らもいるようにするためである。そしてイエスははっきりといいます。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」(ヨハネ14・4)。するとトマスがイエスをさえぎって、こういいます。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません」(ヨハネ14・5)。
 現実に、トマスはこのことばで、自分がきわめて低い理解しかしていないことを示します。けれども、トマスのこのことばは、イエスが次のような有名な宣言を行うきっかけを与えました。「わたしは道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネ14・6)。したがって、この啓示はまずトマスに示されました。しかし、それは、わたしたちすべてと、すべての時代にあてはまります。わたしたちはこのことばを聞いたり、読んだりするたびに、自分たちがトマスのそばにいると考えることができます。そして、主は、トマスに語られたように、わたしたちにも語っておられると想像することができるのです。
 同時に、トマスの問いかけは、わたしたちに、いわば、イエスに説明を求める権利も与えます。わたしたちはしばしばイエスのいうことがわかりません。わたしたちはイエスに次のようにいう勇気をもたなければなりません。主よ、わたしたちはあなたの仰せになることがわかりません。わたしに耳を傾け、わたしが理解できるように助けてください。こうして、わたしたちは包み隠さずにイエスに語りかけます。これが、真の祈り方です。こうして、わたしたちは、自分たちの理解力が乏しいことを明らかにします。しかし、同時にわたしたちは、光と力の与え主が光と力を与えてくださることを期待する者の、信頼に満ちた態度をとることになるのです。
 次に、きわめて有名なのが、ことわざにまでなっている、不信仰のトマスの場面です。この出来事は復活の八日後に起こりました。最初、トマスは、イエスが自分のいないときに現れたことを信じずに、こういいました。「あのかたの手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしはけっして信じない」(ヨハネ20・25)。深く考えると、このことばには次の確信が示されています。すなわち、わたしたちはイエスをその顔によってではなく、傷によって知るのだということです。トマスは、イエスがどのようなかたであるかを示すしるしは、何よりもその傷であると考えました。この傷のうちに、イエスがどれほどわたしたちを愛してくださったかが現されたからです。使徒トマスは、このことを見誤ることがありませんでした。
 ご存知のように、八日の後、イエスは再び弟子たちに現れました。今回はトマスもそこにいました。そしてイエスはトマスに呼びかけました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20・27)。
 トマスは、新約聖書の中でもっともすばらしい信仰告白をもって、これに答えます。「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20・28)。このことについて、聖アウグスチヌスはこう解説しています。トマスは「人間を見て触り、見たことも触ったこともない神を認めた。しかし彼は見て触った前者によって、もはや疑いを離れて後者を信じたのである」(『ヨハネによる福音書講解説教』:In Johannis evangelium tractatus 121, 5〔岡野昌雄訳、『アウグスティヌス著作集第25巻』教文館、1993年、408頁〕)。福音書記者ヨハネは、続けて、イエスがトマスに述べた最後のことばを記します。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20・29)。
 このことばは、現代でもいうことができます。「見ないで信じる人は、幸いである」。いずれにせよ、イエスは、トマスに続くキリスト信者、すなわちわたしたちすべてにとっての基本原則をここで述べています。興味深いのは、もう一人のトマス、すなわち中世の偉大な神学者トマス・アクィナスが、この幸いと、ルカによって一見すると逆のしかたで述べられた、もう一つの幸いとを、結びつけていることです。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」(ルカ10・23)。
 しかし、トマスはこう解説します。「見ているのに信じない者よりも、見ないで信じる者のほうがはるかに価値がある」(『ヨハネ福音書注解』:Lectura super Evangelium sancti Johannis 20, lectio VI, § 2566)。実際、ヘブライ人への手紙は、約束されたものが実現されるのを見ないで神を信じた、聖書の多くの太祖たちを思い起こすことによって、信仰を次のように定義します。「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブライ11・1)。
 使徒トマスの例は、少なくとも次の三つの理由から、わたしたちにとって重要です。第一に、それはわたしたちが不安なときに力づけてくれるからです。第二に、それは、どのような疑いも、最後は迷いを超えて明らかにされうることを、わたしたちに示してくれるからです。最後に、イエスがトマスに語ったことばは、成熟した信仰の真の意味を思い起こさせ、困難があっても、イエスに忠実に歩み続けるようにわたしたちを励ますからです。
 第四福音書は、トマスについての最後の記事をわたしたちに残しています。福音書は、ティベリアス湖畔での不思議な漁(すなど)りの後に続いて、トマスが復活したかたをあかししたと述べます(ヨハネ21・2参照)。そのとき、トマスはシモン・ペトロのすぐ後に言及されます。それは、トマスが最初のキリスト教共同体の中できわめて重要な位置を占めていたことをはっきりと示すしるしです。実際、後にトマスの名前で『トマス行伝』や『トマス福音書』が書かれました。これらはいずれも外典ではありますが、初期キリスト教研究にとって重要です。
 最後に、古代の伝承によれば、トマスはまずシリアとペルシアで福音を宣べ伝え(カイサレイアのエウセビオス『教会史』3・1に引用されたオリゲネスの記述による)、後に西インドに至り(『トマス行伝』1-2、17以下参照)、そこからついに南インドにまで行ったことを思い起こしたいと思います。このような宣教の展望をもって、わたしたちの考察を終えたいと思います。トマスの模範が、わたしたちの主であり、わたしたちの神であるイエス・キリストへのわたしたちの信仰をますます強めてくれるように願います。

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