教皇ベネディクト十六世の69回目の一般謁見演説 イスカリオテのユダとマティア

10月18日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の69回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」につい […]

10月18日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の69回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の23回目として、「イスカリオテのユダとマティア」の二人の使徒について解説しました。今回で十二使徒についての連続講話が終了しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、マタイによる福音書27章3-5節が朗読されました。謁見には30,000人の信者が参加しました。
謁見の最後に、イタリアの巡礼者に対するイタリア語によるあいさつの中で、教皇は、前日の10月17日(火)に起こったローマの地下鉄事故に触れて、次のように述べました。「昨日の朝、ローマの地下鉄で起こった事故の知らせに接し、深い心の痛みを覚えています。この悲しみの時にあたり、わたしは何よりも、悲惨な事故の被害に遭ったすべてのかたがたに思いを寄せています。わたしはこのかたがたに対して慰めと愛情の思いを表すとともに、このかたがたを祈りの中で特に心にとめることを約束したいと思います」。
ローマの地下鉄事故では、1名が死亡し、236名が負傷しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日、わたしたちは、イエスがその地上の生涯の間に直接召し出した使徒たちについて考察する連続講話を終えます。連続講話を終えるにあたって、わたしたちは、十二人のリストの中でいつも最後に挙げられる人物、すなわち、イスカリオテのユダについて述べないわけにはいきません。わたしたちは、後にユダの代わりに選ばれた人物、すなわちマティアを一緒に扱いたいと思います。
 ユダという名前を聞いただけで、キリスト信者は本能的に、非難と断罪の反応を起こします。「イスカリオテ」という名前の意味については議論されています。よく行われる説明は、それが「ケリヨト出身の人」を表すというものです。すなわち、ケリヨトは彼が生まれた村を指します。この村はヘブロン近郊にあり、聖書の中で二度言及されます(ヨシュア15・25、アモス2・2参照)。
 他の人は、この名前が「暗殺者」(シカリ党)ということばに由来すると解釈します。すなわち、このことばは、ユダが、ラテン語で「シカ」と呼ばれる短剣で武装したゲリラ兵であったことを暗示します。最後に、ある人は、この添え名は、「引き渡すことになる者」を表すヘブライ・アラム語根を音写したにすぎないと考えます。この言い方は、第四福音書(ヨハネによる福音書)の中に二回見られます。すなわち、ペトロの信仰告白の後(ヨハネ6・71参照)と、イエスがベタニアで香油を注がれるときです(ヨハネ12・4参照)。
 他の箇所は、「イエスを裏切ろうとしていたユダ」と述べて、裏切りが行われている最中であることを示します。この表現は、最後の晩餐のときに、裏切りが告げられた後で用いられ(マタイ26・25参照)、また、イエスが逮捕されるときにも用いられます(マタイ26・46、48、ヨハネ18・2、5参照)。これに対して、十二人のリストは、裏切りをすでに行われたこととして述べます。「イエスを裏切ったイスカリオテのユダ」。マルコ(3・19)もマタイ(10・4)もルカ(6・16)も、同じ意味の言い方を用いています。
 裏切り自体は、二つの機会に行われました。それはまず、企ての段階で行われます。すなわち、ユダがイエスを敵に銀貨三十枚で引き渡すことに同意したときです(マタイ26・14-16参照)。また、その後、ユダがゲツセマネで師であるかたに接吻をして裏切りを実行したときです(マタイ26・46-50参照)。
 いずれにせよ、福音書記者たちは、使徒としての資格がユダに完全に備わっていたことを主張しています。ユダは繰り返し「十二人の一人」(マタイ26・14、47、マルコ14・10、20、ヨハネ6・71)あるいは「十二人の中の一人」(ルカ22・3)と呼ばれます。
 さらに、イエスは二つの機会で、使徒たちに向かってユダについて話すときに、ユダを「あなたがたのうちの一人」(マタイ26・21、マルコ14・18、ヨハネ6・70、13・21)として示します。そこでペトロはユダについてこう述べることになります。「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました」(使徒言行録1・17)。
 ですから、ユダは、イエスが親しい仲間また協力者として選んだ人びとの一団に属する人物でした。そこから、起こった出来事を説明するために、二つの問いが生まれます。第一は、なぜイエスはこの人を選び、信頼したのかという問いです。
 実際、ユダはグループの会計係でしたが(ヨハネ12・6b、13・29a参照)、現実には「盗人」(ヨハネ12・6a)とも呼ばれています。イエスがユダについて次のようなきわめて厳しい裁きのことばを述べるとき、この選びはいっそう不可解なものとなります。「人の子を裏切るその者は不幸だ」(マタイ26・24)。
 ユダの永遠の運命をめぐって、この不可解さはいっそう深まります。わたしたちはユダについて次のように書かれているのを知っているからです。ユダは「後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』といった」(マタイ27・3-4)。ユダはその後、そこを立ち去って、首をつりました(マタイ27・5参照)。しかし、わたしたちが、神に代わってユダのしたことを判断することはできません。神は限りなく憐れみ深く、正しいかただからです。
 第二の問いは、ユダのとった行動の理由に関するものです。なぜユダはイエスを裏切ったのでしょうか。この問いに対して、さまざまな説が述べられました。ある人は、ユダの金銭への貪欲がその理由だと主張しました。他の人は、メシアについての考えに基づく説明を主張しました。ユダは、イエスが、自国の政治的・軍事的解放という自分の計画にふさわしくないのを見て、失望したというのです。
 実際に、福音書のテキストは、もう一つの側面について述べています。ヨハネははっきりと次のようにいいます。「すでに悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(ヨハネ13・2)。ルカも、似たようなしかたで次のように述べます。「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」(ルカ22・3)。
 このようなしかたで、さまざまな歴史的理由を超え、ユダの人格的な責任に基づいて、出来事の説明が行われます。ユダは憐れにも、悪しき者の誘惑に負けました。いずれにせよ、ユダの裏切りは不可解なものであり続けます。イエスはユダを友として扱いました(マタイ26・50参照)。けれども、イエスは、自分に従って幸いへの道を歩むようにと招くにあたり、意志を強制することもなければ、サタンの誘惑からあらかじめ守ることもしませんでした。イエスは人間の自由を尊重したのです。
 実際、人間の心はまことにさまざまなしかたで堕落することがありえます。心を堕落から守る唯一の方法は、個人主義と自律だけを重んじるものの考え方に固執しないことです。そして、その反対に、いつも新たにイエスの側に身を置き、イエスの視点を自分のものとすることです。
 わたしたちは日々、イエスと完全な交わりをもつよう努めなければなりません。ペトロでさえも、イエスと、エルサレムでイエスを待ち受けることに反対しようとしたことを思い起こしましょう。しかしペトロは、きわめて厳しく叱られました。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ8・32-33)と。
 ペトロは、つまずいた後、悔い改めて、ゆるしと恵みを与えられました。ユダも後悔しましたが、彼の後悔は絶望に変わり、自らを破壊することになりました。聖ベネディクトがその『戒律』のもっとも重要な第4章の終わりで述べていることは、いつもわたしたちが思い起こすべき招きです。「神の慈悲に対してけっして望みを失わないこと」(『聖ベネディクトの戒律』古田暁訳、すえもりブックス、2000年、39頁)。実際、聖ヨハネが述べている通り、「神は、わたしたちの心よりも大きい」(一ヨハネ3・20)のです。
 二つのことを心にとめたいと思います。第一は、イエスはわたしたちの自由を尊重されるということです。第二は、イエスは、わたしたちが進んで悔い改め、回心することを待ち望んでおられるということです。イエスは、憐れみとゆるしに満ちたかたです。ユダが果たした否定的な役割を考えるとき、わたしたちはそれを、さまざまな出来事を超えた神の導きのもとに置いて見る必要があります。
 ユダの裏切りはイエスの死をもたらしました。イエスはこの恐ろしい苦しみを、救いをもたらす愛の場へと、御父への自己奉献へと造り変えました(ガラテヤ2・20、エフェソ5・2、25参照)。イタリア語の「裏切る」(トラディーレ)という動詞は、「引き渡す」を意味するギリシア語(パラディドーミ)に由来します。時に「引き渡す」主体は、神自身であることがあります。神は、愛のゆえに、イエスをわたしたち皆に「渡された」からです(ローマ8・32参照)。神は、その計り知れない救いの計画において、世のあがないのために、ゆるしがたいユダの行いを、御子が完全にささげられる機会として用いました。
 終わりに、わたしたちは、復活の後に、この裏切り者であるユダの代わりに選ばれた人のことも思い起こしたいと思います。エルサレム教会で二人の人が共同体の中から候補として立てられ、くじが引かれました。すなわち、「バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティア」(使徒言行録1・23)です。
 選ばれたのは、マティアでした。こうして「この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった」(使徒言行録1・26)。わたしたちは、マティアがイエスの地上で行ったすべてのことの証人であり(使徒言行録1・21-22参照)、彼が最後までイエスに忠実に従い続けたということのほかは、マティアについて何も知りません。このすばらしい忠実さに、ユダの代わりとなるようにという神の招きが加えられました。それはあたかも、ユダの裏切りを埋め合わせたかのようです。
 ここからわたしたちは最後の教訓を得ることができます。教会の中には、ふさわしくない不誠実なキリスト信者が少なくありません。たとえそうだとしても、わたしたちの主であり救い主であるイエス・キリストをはっきりとあかしすることによって、彼らが行った悪の埋め合わせをすることが、わたしたち皆の務めなのです。

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