教皇ベネディクト十六世の2006年10月22日の「お告げの祈り」のことば 第80回世界宣教の日にあたって

教皇ベネディクト十六世は、10月22日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。 「 […]

教皇ベネディクト十六世は、10月22日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で、イスラーム教徒のラマダーンの終了にあたって、イラクの治安の回復のための呼びかけを行いました。教皇の呼びかけは次の通りです。
「わたしは世界中のイスラームの人びとに心からごあいさつできることをうれしく思います。イスラームの人びとはこの数日間、ラマダーンの断食月の終了を祝っておられます。イスラームのすべての皆様に平安と平和がありますように願います。
この喜ばしい雰囲気とまったく対照的なのは、イラクからもたらされた、きわめて深刻な形での不安定な状況と、その結果としての暴力に関する知らせです。きわめて多くの罪のない人びとが、ただシーア派、スンニ派あるいはキリスト教徒であるというだけの理由で、この暴力にさらされています。
わたしはキリスト教共同体が深刻な懸念を抱いていることを知っております。また、このキリスト教共同体と、すべての犠牲者のかたがたを心にかけることを約束したいと思います。そして、すべてのかたがたに力と慰めが与えられることを祈り求めます。さらにわたしは皆様にお願いします。どうかわたしとともに全能の神に願い求めてください。全能の神が、地域と世界の宗教指導者と政治指導者に必要な信仰と勇気を与えてくださいますように。それは、公平な分配の追求のうちに、相互の尊重のうちに、また構成する人びとの多様性が国家の豊かさの不可欠な部分をなすことへの自覚のうちに、彼らが故国の再建への道を歩む人びとを支えるためです」。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日わたしたちは、第80回世界宣教の日を行います。世界宣教の日は教皇ピオ十一世によって制定されました。ピオ十一世は「諸国民への」宣教に力強い刺激を与えるとともに、1925年の聖年にすばらしい展示を行わせました。この展示は、後に現在のバチカン美術館内の宣教・民俗学美術館となりました。今年、恒例の世界宣教の日のメッセージの中で、わたしは「愛――宣教の心」というテーマを示しました。実際、宣教は、愛によって導かれないなら、慈善活動や社会活動にすぎないものとなってしまいます。しかしながら、キリスト信者には使徒パウロの次のことばが当てはまります。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」(二コリント5・14)。
 愛は、御父を動かして御子を世に遣わさせ、また、御子を動かしてわたしたちのために十字架の死に至るまでご自分をささげさせました。この同じ愛が、聖霊によって信じる者の心に注がれています。洗礼を受けたすべての人は、ぶどうの木につながれた枝として、イエスの宣教に協力することができます。この宣教は次のように要約できます。それは、「神は愛」であり、まさにそのために神は世を救おうと望んでおられるというよい知らせを、すべての人にもたらすことです。
 宣教は心から生まれます。十字架の前で祈り、刺し貫かれた脇腹を仰ぎ見るとき、人は、自分が愛されていることを知る喜びと、愛したいという望み、そして、自分を憐れみと和解の道具としたいという望みを自分の中で感じずにはいられません。それが、ちょうど800年前に、当時荒れ果てていたサン・ダミアーノ教会で、アシジの青年フランシスコに起こったことでした。今はサンタ・キアラ教会に安置されている十字架から、フランシスコはイエスが次のようにいうのを聞きました。「行って、わたしの家を建て直しなさい。見ての通り、わたしの家は荒れ果てているから」。
 この「家」は、何よりもまずフランシスコ自身の生活でした。フランシスコは自分の生活を真の意味での回心によって「建て直す」必要がありました。この「家」は教会でもありました。教会とは、煉瓦(れんが)でできた教会ではなく、生きた民です。この生きた民は常に浄めを必要としています。「家」とは人類全体でもありました。神はこの人類のうちに住むことを欲するからです。宣教は、常に神の愛によって造り変えられた心から生まれます。さまざまなしかたで福音への奉仕のために自分の生涯をささげた、数えきれない聖人や殉教者たちの物語があかしする通りです。
 ですから宣教は、すべての人がそこで働くことのできる場です。ある人は自分の家庭で神の国を実現します。ある人はキリスト教精神をもって職業生活を営みます。ある人は主のために自分のすべてを奉献します。ある人は神の民への叙階された奉仕職においてよい牧者であるイエスに従います。ある人は特別なしかたで、まだキリストを知らない人にキリストを告げ知らせに出かけます。どうかわたしたちが至聖なるマリアの助けによって、摂理によっておのおのの置かれた状況の中で、新たな情熱をもって宣教の喜びと勇気を生きることができますように。

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