教皇ベネディクト十六世の2006年10月29日の「お告げの祈り」のことば 年間第30主日にあたって

教皇ベネディクト十六世は、10月29日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。 こ […]

教皇ベネディクト十六世は、10月29日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
この「お告げの祈り」のことばの中で、教皇は当日の年間第30主日の福音(マルコ10・46-52)を解説しました。
「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行いました。「わたしは各方面から、世界の諸地域で誘拐の犠牲となった人のために発言するようにという要請を受けています。わたしはこの誘拐という犯罪をあらためて強く非難するとともに、祈りの中で、誘拐の犠牲となったすべての人とその家族、友人を思い起こすことを約束いたします。特にわたしは、去る9月14日に誘拐されたジョヴァンニ・バッティスタ・ピナ氏が、早くその愛する者のもとに帰れるようにという、サッサリの大司教と共同体が最近行った緊急の呼びかけに加わります」。
ピナ氏(37歳)はボノルヴァの畜産業者です。ピナ氏の誘拐直後に、誘拐犯から30万ユーロ(4500万円)の身代金を要求する電話がありました。サッサリはイタリアのサルディーニャ州の都市です。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日の主日の福音(マルコ10・46-52)にはこう書かれています。主がエリコの道を通り過ぎようとされたとき、バルティマイという盲人が主に向かって大声で叫びました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。この願いはイエスの心を動かしました。そこでイエスは立ち止まって、その盲人を呼んで、いやしました。
 決定的な瞬間は、主と、苦しむ人とが、個人的かつ直接に出会ったことでした。二人は互いに向かい合いました。いやすことを望む神と、いやされたいと願う人。二人の自由、二人の意志が一致しました。「何をしてほしいのか」と主は男に尋ねます。「目が見えるようになりたいのです」と盲人は答えました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。
 このことばによって奇跡が実現しました。神は喜び、人も喜びました。そして、福音書が述べているように、見えるようになったバルティマイは、「なお道を進まれるイエスに従った」。すなわち、彼はイエスの弟子となり、師であるかたとともにエルサレムに上りました。それは、イエスとともに偉大な救いの神秘にあずかるためです。この話は、その本質において、洗礼志願者が洗礼の秘跡に向かう道を思い起こさせます。初代教会では洗礼は「照らし」とも呼ばれたからです。
 信仰は照らしへの道です。信仰は、自分が救いを必要とすることを謙遜に認めることから出発して、キリストとの個人的な出会いに至ります。キリストは、愛の道を歩むようにと招きます。この原型に従って、キリスト教入信の過程が教会の中で形成されました。この過程は、洗礼と堅信(塗油)と聖体の秘跡を準備します。
 幼児洗礼が多かった、かつての宣教の場では、青年や成人に対する教理的・霊的な教育が行われました。それは、彼らが大人として自覚的に信仰の道を再発見し、その後の人生において一貫したしかたであかしを行えるようにするためです。こうした領域において司牧者とカテキスタが行う仕事はなんと重要なものでしょうか。
 自分が洗礼を受けていることの意味を再発見することは、すべてのキリスト信者が宣教を行う上での基礎となります。なぜなら、福音書に見られるように、キリストに心を捉えられた人は、その跡に従う喜びをあかしせずにはいられないからです。10月は特に宣教にささげられた月です。この月にあたって、わたしたちは、洗礼に基づいて、わたしたちが本来、宣教へと召された者であることをあらためて理解します。
 おとめマリアの執り成しを願い求めようではありませんか。どうか福音の宣教者が増し加わりますように。洗礼を受けて、主と深く結ばれた者が皆、自分の生活のあかしによって、すべての人に神の愛を告げ知らせるように招く声を聞くことができますように。

PAGE TOP