教皇ベネディクト十六世の71回目の一般謁見演説 パウロ――キリストを中心に置くこと

11月8日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の71回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」について […]

11月8日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の71回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の25回目として、「パウロ――キリストを中心に置くこと」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、コリントの信徒への手紙一1章4-7節が朗読されました。謁見には15,000人の信者が参加しました。
なお、先週11月1日(水)は、午前10時からサンピエトロ大聖堂で教皇司式により諸聖人の祭日のミサが行われたため、一般謁見はありませんでした。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 二週間前に行った前回の講話で、わたしは使徒パウロの生涯の基本的な輪郭をたどってみました。わたしたちは、ダマスコへと向かう道でのキリストとの出会いが、いかにしてパウロの人生を文字通り180度転換したかを見ました。キリストは、パウロの存在理由となるとともに、またその使徒としてのすべてのわざの原動力となりました。
 パウロの手紙の中で、神の名は500回使われますが、それに次いでもっとも多く(380回)言及されるのはキリストの名です。ですから、イエス・キリストが一人の人間の人生に、それゆえわたしたち自身の人生にも、どれだけ影響を与えうるかを理解することが重要です。実際、イエス・キリストは救いの歴史の頂点であり、それゆえ他の諸宗教との対話における真の判断基準なのです。
 パウロを考察することによって、わたしたちは次のような基本的問いを発することができます。人間とキリストとの出会いはどのようにして行われるのでしょうか。この出会いから生じる関係はどのようなものでしょうか。これに対してパウロが与えてくれる答えは、次の二つのしかたで理解することができます。
 まず、パウロは、信仰がもつ根本的でかけがえのない価値をわたしたちに理解させてくれます。ローマの信徒への手紙でパウロは次のように述べています。「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(ローマ3・28)。またガラテヤの信徒への手紙でも次のようにいっています。「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、誰一人として義とされないからです」(ガラテヤ2・16)。
 「義とされる」とは、正しい者とされること、すなわち、神の憐れみ深い義によって受け入れられ、神との交わりに入ることを意味します。したがって、それは、わたしたちのすべての兄弟といっそう本来の関係を結ぶことができることを意味します。そして、このことが行われるのは、わたしたちの罪が完全にゆるされることによってです。
 そこでパウロは、このような状態で生きることは、わたしたちが行いうる善いわざによるのではなく、ただ神の恵みのみによることを、はっきりと述べます。わたしたちは「ただキリスト・イエスによるあがないのわざを通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ3・24)。
 これらのことばによって、聖パウロは自分の回心の根本的な内容を表しています。すなわちそれは、復活したキリストとの出会いの結果、彼の人生が新たに方向づけられたことにほかなりません。パウロは回心の前も、神や神の律法から離れてはいませんでした。その反対に、パウロは律法を遵守する人でした。彼は熱狂的なほど律法を忠実に守りました。
 しかし、キリストとの出会いに照らされることによって、パウロは、このような行いによって自分が自分自身を、すなわち自分の義を築こうとしていたことを知りました。そして、このようなすべての義によって自分が自分だけのために生きていたことを知りました。パウロは、自分の人生が新たな方向づけをどうしても必要とすることを知ったのです。この新たな方向づけは、彼の次のことばに表されています。「わたしが今、肉の内に生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身をささげられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2・20)。
 それゆえパウロは、もはや自分のために、すなわち自分自身の義のために生きることをやめました。彼はキリストによって、キリストとともに生きたのです。自分をささげることによって、パウロは自分自身を築こうとするのをやめました。これが新たな義です。主がわたしたちに与えてくださった新たな方向づけです。それは信仰によってわたしたちに与えられました。キリストの自己奉献の最高の表現である、キリストの十字架を前にして、誰も自分自身を誇ることはできません。自分が自分のために行った義を誇ることはできません。
 別のところで、パウロはエレミヤのことばを用いて、自分の考えを次のように表しています。「誇る者は主を誇れ」(一コリント1・31=エレミヤ9・22-23)。また、こうも述べています。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものがけっしてあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(ガラテヤ6・14)。
 行いによってではなく、信仰によって義とされるとはどういうことか――このことを考察することによって、わたしたちは、パウロがその生涯によって示した、キリスト信者のあり方を定義する、第二の要素に到達しました。キリスト信者のあり方は、二つの要素から成っています。すなわち、自分自身のことを求めず、キリストによって受け入れられ、キリストに自分をささげること、そして、そこから、キリスト自身の生き方に自らあずかり、キリストと一つになり、キリストと生死をともにすることです。
 パウロはこのことをローマの信徒への手紙で次のように述べています。わたしたちは「その死にあずかるために洗礼を受け・・・・キリストとともに葬られ・・・・キリストと一体となって・・・・このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(ローマ6・3、4、5、11)。最後の表現は意味深いものです。実際、パウロにとって、キリスト信者は洗礼を受けた者、信じる者だというだけでは不十分でした。パウロにとって同じように重要だったのは、キリスト信者が「キリスト・イエスに結ばれている者」(ローマ8・1、2、39、12・5、16・3、7、10、一コリント1・2、3なども参照)だということでした。
 別のところで、パウロはこのことばを逆にして次のように述べています。「キリストがわたしたち(あなたがた)の内におられる」(ローマ8・10、二コリント13・5)、また「わたしの内に生きておられる」(ガラテヤ2・20)。キリストとキリスト信者が互いの内に存在し合うという、このパウロに特徴的な教えは、パウロの信仰についての考察を完成するものです。実際、信仰はわたしたちをキリストと密接に結びつけますが、わたしたちとキリストの違いも強調します。
 しかし、パウロによれば、キリスト信者の生活は、わたしたちが「神秘的」と呼ぶことのできる要素ももっています。それはわたしたちをキリストと一致させ、またキリストをわたしたちと一致させるからです。この意味で、使徒パウロは、わたしたちの苦しみを「キリストの苦しみがわたしたちに及んでいる」(二コリント1・5)ものとみなすまでに至ります。こうして「わたしたちは、いつもイエスの死をからだにまとっています、イエスのいのちがこのからだに現れるために」(二コリント4・10)。
 わたしたちは、パウロの模範に従いながら、これらのことをすべて、わたしたちの日常生活において実現しなければなりません。パウロはいつもこの偉大な霊的精神をもって生きていたからです。一方で、信仰によって、わたしたちは神に対する謙遜な態度を常に保たなければなりません。そればかりか、神を礼拝し、賛美しなければなりません。実際、わたしたちがキリスト信者でいられるのは、ただ神とその恵みのみによることです。誰も、また何ものも神に代わることはできません。ですからわたしたちは、神にささげるほまれを、他の何ものにも、また他の誰にもささげることができません。いかなる偶像もわたしたちの霊的世界を汚すことがあってはなりません。もしそのようなことがあれば、わたしたちは与えられた自由を享受する代わりに、卑しむべき奴隷の状態に逆戻りすることになります。他方でわたしたちは、徹底的にキリストに属する者となり、「キリストに結ばれている」ことにより、完全な信頼と深い喜びに満ちた態度をもたなければなりません。
 結局のところ、まことにわたしたちは聖パウロとともに次のように叫ばなければなりません。「もし神がわたしたちの味方であるならば、誰がわたしたちに敵対できますか」(ローマ8・31)。パウロは答えていいます。誰も、また何ものも「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8・39)。それゆえ、わたしたちのキリスト信者としての生活は、わたしたちが思い浮かべることのできるもっとも堅固で確かな岩の上に据えられています。わたしたちはこの岩からわたしたちのすべての力を得ています。使徒パウロがちょうど次のように述べている通りです。「わたしを強めてくださるかたのおかげで、わたしにはすべてが可能です」(フィリピ4・13)。
 ですから、パウロがわたしたちに与えてくれるこのすばらしい思いに支えられながら、喜びのときも悲しみのときも、わたしたちの人生に立ち向かおうではありませんか。わたしたちはそれを経験することによって、使徒パウロ自身が次のように述べているのが真実であることを知ることができます。「わたしは自分が信頼しているかたを知っており、わたしに委ねられているものを、そのかたがかの日まで守ることがおできになると確信しているからです」(二テモテ1・12)。かの日とは、世とわたしたちの裁き主、また救い主である、キリスト・イエスとわたしたちが出会う、決定的な日のことです。

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