教皇ベネディクト十六世の72回目の一般謁見演説 パウロ――わたしたちの心の中におられる聖霊

11月15日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の72回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の26回目として、「パウロ――わたしたちの心の中におられる聖霊」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ローマの信徒への手紙8章26-27節が朗読されました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日わたしたちは、これまで行われた二回の講話に続いて、再び聖パウロとその思想を考察したいと思います。わたしたちにとって聖パウロは一人の巨人です。それは、具体的な使徒としての活動についてばかりでなく、その並外れて深く刺激的な神学思想についてもいえることです。前回わたしたちは、イエス・キリストがわたしたちの信仰生活の中心的な位置を占めることについて、パウロがどのように述べているかを考察しました。そこで今日は、聖霊と、聖霊がわたしたちの中におられることについて、パウロがどのようにわたしたちに語っているかを見てみたいと思います。なぜなら、このことについてもパウロはたいへん大事なことをわたしたちに教えているからです。
 ご存知のように、聖ルカは使徒言行録の中で、聖霊降臨の出来事を述べながら、わたしたちに聖霊について語っています。聖霊降臨のときに降った聖霊は、福音を世界のすみずみにまであかしするという使命を果たすように、力強く促します。実際、使徒言行録は、使徒たちが初めはサマリアで、次いでパレスチナの沿岸地方やシリアで行ったさまざまな宣教活動を語ります。何よりもそこでは、パウロが行った偉大な宣教旅行について語られます。これについては、すでに行われた水曜の謁見で思い起こしました。
 しかし、聖パウロもその手紙の中で、別の角度からわたしたちに聖霊について語っています。聖パウロは、至聖なる三位一体の第三の位格が力強く働くという側面を示すだけでなく、聖霊がキリスト信者の生活の中におられることについても詳しく考察しています。キリスト信者のあり方は聖霊によって特徴づけられるからです。いいかえると、パウロは、聖霊がキリスト信者の行動だけでなく、その存在に影響を及ぼすことを考察します。実際パウロは、聖霊がわたしたちの内に住んでおり(ローマ8・9、一コリント3・16参照)、「神が御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった」(ガラテヤ4・6)と述べます。
 それゆえパウロの考えでは、聖霊はわたしたちの心のもっとも奥深くまでも究めます。このことについてパウロの次のことばは重要な意味をもっています。「キリスト・イエスによっていのちをもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。・・・・あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ8・2、15)。わたしたちは子なので、神を「父」ということができるのです。
 それゆえ、キリスト信者は、何かを行う前からすでに、深く豊かな内面性を備えていることがわかります。この内面性は、洗礼と堅信の秘跡によってキリスト信者に与えられます。この内面性によって、キリスト信者は、神に対して子であるという、本来の客観的な関係を与えられます。わたしたちの偉大な尊厳はここにあります。わたしたちは神の像であるだけでなく、神の子なのです。これはまた、わたしたちが子としての身分を生きるようにという招きでもあります。わたしたちは、偉大な神の家族に子として受け入れられたことをますます自覚しなければなりません。わたしたちはこの客観的なたまものを主観的な現実に造り変えるように招かれています。それは、この現実がわたしたちの思考と行動と存在を決定するようになるためです。神はわたしたちを子とされました。それは、わたしたちを、イエス自身の尊厳と等しくはないまでも、それに似た尊厳へと高めるためでした。イエスは完全な意味で真の独り子だからです。このイエスによって、わたしたちは、子としての身分と、御父への信頼をこめた自由とを与えられ、また回復されたのです。
 こうしてわたしたちは、旧約聖書やキリスト教の用語で繰り返しそう述べられているにもかかわらず(創世記41・38、出エジプト31・3、一コリント2・11、12、フィリピ3・3など参照)、キリスト信者にとって聖霊がもはやたんなる「神の霊」でないことを見いだします。また、聖霊は、旧約聖書や(イザヤ63・10、11、詩編51・13参照)、ユダヤ教文献(クムラン文書、ラビ文献)の表現に従って一般的に考えられているような、たんなる「聖なる霊」でもありません。
 実際、キリスト教信仰に固有なのは、聖霊が本来、復活した主から分け与えられるものだという信仰告白です。主ご自身が「いのちを与える霊」(一コリント15・45)となられたからです。だからこそ聖パウロは、直接的なしかたで、「キリストの霊」(ローマ8・9)、「御子の霊」(ガラテヤ4・6)、また「イエス・キリストの霊」(フィリピ1・19)と語ります。あたかも彼は、父である神が子の内に目に見えるものとなっただけでなく(ヨハネ14・9参照)、神の霊もまた、十字架につけられて復活した主の生涯とわざの内に表されたといおうとしているかのように思われます。
 パウロはわたしたちにもう一つの大事なことを教えています。パウロは、わたしたちの内に聖霊がおられなければ、真の祈りはありえないといいます。実際、パウロはこう述べます。「同様に、〝霊〟も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、」――わたしたちが神とどう語るべきかを知らないというのは、ほんとうです――「〝霊〟自らが、ことばに表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜くかたは、〝霊〟の思いが何であるかを知っておられます。〝霊〟は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」(ローマ8・26-27)。
 これは、聖霊、すなわち御父と御子の霊が、今やわたしたちの魂の魂、すなわちわたしたちの存在のもっとも秘められた部分となってくださるといおうとしているかのように思われます。そして、この霊から、神に向けて絶えず祈りがささげられます。わたしたちは祈りのことばをはっきり決めることさえできないからです。実際、聖霊は常にわたしたちの内で目覚め、わたしたちの不足を補いながら、わたしたちの賛美を、わたしたちのもっとも深い願いとともに御父にささげます。もちろんそのためには、聖霊との生きた交わりをしっかりともつことが必要です。そこでわたしたちは、このようにわたしたちの内に聖霊がおられることを、いっそう敏感に注意深く感じとるように招かれています。それは、わたしたちが祈りによって造り変えられ、この聖霊の現存を感じ、そこから、聖霊の内に、御父に対して、子として祈り、また語ることを学ぶためです。
 さらに聖パウロがわたしたちに教える、聖霊のもう一つの特徴的な側面があります。それは、聖霊と愛の関わりです。使徒パウロは次のように述べています。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5・5)。回勅『神は愛』の中で、わたしは聖アウグスチヌスのきわめて説得力のあることばを引用しました。「あなたが愛を見るならば、あなたは三位一体を見るのである」(教皇ベネディクト十六世回勅『神は愛』19)。続いて私は次のように説明しました。「実際、霊は内的な力として、信じる者の心をキリストの心と一致させ、キリストが愛したように兄弟を愛するように促します」(同)。
 聖霊はわたしたちを神のいのちの鼓動へと導きます。神のいのちとは、愛のいのちです。この愛のいのちは、わたしたち自身を、御父と御子の間の関係にあずからせます。パウロが霊の結ぶさまざまな実を数え上げるときに、まず愛を挙げたことには深い意味があります。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和・・・・です」(ガラテヤ5・22)。そもそも愛とは一致させるものです。ですから、このことばは何よりもまず、聖霊がキリスト信者の共同体の中の交わりを造り出すものであることを表します。わたしたちがミサの初めにパウロのことばを用いてとなえている通りです。「聖霊の交わりが(すなわち、聖霊のもたらす交わりが)皆さんとともに」(二コリント13・13)。
 しかしながら、聖霊が、すべての人と愛の関係を結ぶようにわたしたちを促すということもまたほんとうです。ですから、わたしたちは愛するときに、聖霊が働く場を作ります。すなわち、聖霊が完全に現れるようにします。そこから、パウロがローマの信徒への手紙の同じ頁の中で、二つの勧めを結びつけたわけがわかります。「霊に燃えなさい」、そして「誰に対しても悪に悪を返さないように」(ローマ12・11、17)。
 最後に、聖パウロによれば、聖霊は、神があらかじめわたしたちに寛大に与えてくださった保証であり、わたしたちに与えられる将来の嗣業を受け継ぐための保証でもあります(二コリント1・22、5・5、エフェソ1・13-14参照)。ですから、聖霊のわざが、わたしたちの生涯を愛と喜びと交わりと希望という大きな価値あるものへと方向づけるということを、パウロから学ぼうではありませんか。わたしたちは日々、この聖霊の方向づけを経験しなければなりません。そのためにわたしたちは、聖霊の内なる勧めに従い、わたしたちを照らす使徒パウロの導きによって行う識別を助けとするのです。

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