教皇ベネディクト十六世の73回目の一般謁見演説 パウロ――教会における生活

11月22日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の73回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」につい […]

11月22日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の73回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の27回目として、「パウロ――教会における生活」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、エフェソの信徒への手紙5章25-27節が朗読されました。謁見には雨の中、20,000人の信者が参加しました。
イタリア語を話す信者に向けたイタリア語でのあいさつの中で、教皇は、前日の11月21日(火)にレバノンの首都ベイルートでレバノンのピエール・ジュマイエル産業相(34歳)が銃撃によって暗殺されたことに触れて、次の呼びかけを行いました。「レバノン政府のピエール・ジュマイエル産業相が暗殺されたという知らせを受けて、深い悲しみを覚えています。わたしはこの野蛮な攻撃を強く非難するとともに、悲しみの内にあるご家族と愛するレバノンの人びとのために祈り、彼らを霊的に支えることを約束します。レバノンを破壊しようとする闇の力を目の当たりにしながら、わたしは、すべてのレバノン国民が憎しみに打ち負かされることなく、国家の一致と正義と和解を強め、ともに平和な未来を築くよう努力してくださることをお願いします。さらに、その心によってこの地域の命運を左右する諸国の指導者の皆様にお願いします。多年にわたり続いているさまざまな不正な状況を国際的な協議によって解決するよう努めてください」。
また教皇は、最近結婚した夫婦に向けて次のように述べました。「親愛なる新婚者の皆様に申し上げます。今日は、使徒的勧告『家庭――愛といのちのきずな』発布25周年を迎えます。この使徒的勧告は教会の家庭司牧に大きな刺激を与えました。この日に当たり、皆様がいつもキリストとの一致の内に結婚の道を歩み続けてくださるようお願いします」。
謁見の終わりに、教皇は参加者に向かって次のように感謝のことばを述べました。「謁見の終わりに、雨の中、皆様が我慢してくださったことを感謝します。しかしまた、一瞬太陽が出て、雨がやんだことを主に感謝したいと思います」。
来週11月28日(火)から12月1日(金)まで教皇はトルコへの司牧訪問を行いため、次週11月29日(水)の一般謁見はありません。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日わたしたちは使徒パウロについて最後の考察を行って、パウロの考察を終えます。実際、わたしたちは、パウロの活動の決定的に重要な構成要素であり、パウロの思想のなかでもっとも重要なテーマである、教会の現実について考えずに、パウロを後にするわけにはいきません。
 まずわたしたちは、パウロのイエスとの最初の接触は、エルサレムのキリスト教共同体のあかしを通じて行われたことに注目しなければなりません。新しい信仰者の集団を知って、パウロはすぐに熱心な迫害者となりました。それは激しい出会いでした。パウロ自身が3つの手紙の中で、3回、このことを正直に認めています。パウロは、自分の行いが最悪の罪であったことを示すかのように、「わたしは、神の教会を迫害した」(一コリント15・9、ガラテヤ1・13、フィリピ3・6)と述べています。
 歴史はわたしたちに、人は普通、教会を通じてイエスに至ることを示しています。すでに述べたように、ある意味でパウロの場合もそうでした。パウロはイエスと出会う前に教会と出会ったからです。しかしパウロの場合、この出会いは逆効果となりました。パウロは教会に従うのではなく、暴力をもって反発したからです。
 パウロは、キリストの直接の介入によってなだめられて、教会に従いました。キリストはパウロがダマスコに向かう道で、ご自分が教会と一つであることを示しました。そして、教会を迫害することは、主であるキリストを迫害することだということをわからせました。
 実際、復活したキリストは、教会を迫害するパウロにこう述べます。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒言行録9・4)。教会を迫害することによって、パウロはキリストを迫害していました。そのときパウロは、キリストへと回心すると同時に、教会へと回心したのです。
 ここからわたしたちは、パウロの思いと心と活動の中にどうしてあれほど教会があったかを理解することができます。まず彼が、福音宣教を行うために訪れたさまざまな町に、文字通り多くの教会を創立することにおいて、教会はパウロの内にありました。「あらゆる教会についての心配事」(二コリント11・28)とパウロがいうとき、彼が考えていたのは、ガラテヤ、イオニア、マケドニア、アカイアに次々と建てられたさまざまなキリスト教共同体のことでした。
 こうした教会のいくつかはパウロの心配や悲しみの種ともなりました。たとえばガラテヤの教会の場合がそうでした。パウロはこの教会が「ほかの福音に乗り換えようとしている」(ガラテヤ1・6)のを見ました。それはパウロがはっきりと反対していたことでした。にもかかわらず、パウロはこの共同体とのきずなを感じていました。それはこの共同体を、パウロは冷ややかな役人のようにでなく、熱心に情熱をこめて建てたからです。
 そこで、たとえばパウロはフィリピの共同体について「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち」(フィリピ4・1)と述べます。ほかのところでは、別の共同体が独特な推薦状にたとえられます。「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人びとから知られ、読まれています」(二コリント3・2)。ほかのところで、パウロは共同体を前にして、彼が真の意味で、父としての心だけでなく、母としての心も抱いていることを示します。パウロは彼らに質問する際に、こう呼びかけているからです。「わたしの子どもたち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」(ガラテヤ4・19。一コリント4・14-15、一テサロニケ2・7-8も参照)。
 パウロは手紙の中で、教会そのものについての彼の教えも示しています。「キリストのからだ」というパウロ独自の教会の定義はよく知られています。それは他の1世紀のキリスト教著作家に見いだされないものです(一コリント12・27、エフェソ4・12、5・30、コロサイ1・24参照)。わたしたちは、教会についてのこの驚くべき表現のもっとも深い根拠を、キリストのからだ(聖体)の秘跡の内に見いだします。
 聖パウロは次のように述べます。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つのからだです」(一コリント10・17)。聖体そのものによって、キリストはわたしたちにご自身のからだを与え、わたしたちをご自身のからだとします。この意味で聖パウロはガラテヤの信徒にこう述べます。「あなたがたは皆、キリストにおいて一つだからです」(ガラテヤ3・28)。
 これらすべてのことによって、パウロは、教会がキリストに属していることだけでなく、ある意味で、教会とキリストご自身が等しく一体であることをわたしたちに悟らせます。それゆえ、教会の偉大さと高貴さ、すなわち教会の部分であるわたしたちすべての偉大さと高貴さは、このことに由来します。わたしたちがキリストのからだの部分であるということは、いわば、わたしたちがキリストの世における現存の延長だということです。そしてそこから、当然のこととして、わたしたちがほんとうにキリストと一致して生きなければならないという務めが生じるのです。
 そこから、キリスト教共同体を力づけ、組み立てるさまざまなたまものについてのパウロの勧めも行われます。これらのたまものは皆、唯一の源である、父と子の霊に基づきます。なぜなら、わたしたちは教会において誰もこれらのたまものを欠くことはないとよく知っているからです。使徒パウロが次のように述べている通りです。「一人ひとりに〝霊〟の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(一コリント12・7)。
 しかし、重要なのは、すべてのたまものが協力して共同体を築くこと、そして、たまものが反対に分裂の原因とならないことです。そのためパウロはたとえをもって問いかけます。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」(一コリント1・13)。パウロは「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つ」ことが必要であることをよく知っており、またそれをわたしたちに教えます。「からだは一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」(エフェソ4・3-4)。
 もちろん、一致の必要性を強調することは、唯一の行動様式に従って教会生活を画一的で平板なものとしなければならないことを意味しません。別のところでパウロは「〝霊〟の火を消してはいけません」(一テサロニケ5・19)と教えます。すなわち、予測することのできない、生き生きとした霊のたまものが示されるために、寛大な心で場をあけておかなければなりません。霊は常に新しい力と活気の源だからです。
 しかし、パウロが特に重視した基準は、互いに築き合うことでした。「すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです」(一コリント14・26)。停滞することも、争いや分裂を起こすこともなしに、秩序あるしかたで教会という建物を築くために、すべてが協力し合わなければならないのです。
 パウロの一つの手紙は、さらに教会をキリストの花嫁としても示します(エフェソ5・21-33参照)。こうしてパウロは、イスラエルの民を契約に基づく神の花嫁とするという預言者のたとえをあらためて用いました(ホセア2・4、21、イザヤ54・5-8参照)。それは、キリストとその教会の関係がどれほど密接なものであるかを示すためでした。すなわち、教会は主からこの上なく優しい愛を受けています。そして、愛は相互に与え合うものでなければなりません。だからわたしたちも、教会のからだの部分である限り、主に対して熱心な忠実さを示さなければならないのです。
 ですから、何よりも大事なのは交わりの関係です。この交わりの関係は、いうならば、イエス・キリストとわたしたちすべてとの「垂直的な」関係であるとともに、「わたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めている」(一コリント1・2)ことによって世において知られているすべての人の間の「水平的な」関係でもあります。
 これがわたしたちの定義です。わたしたちは主イエス・キリストの名を呼び求める人びとに属します。ですから、パウロ自身がコリントの信徒への手紙の中で願ったことの実現をわたしたちがどれほど望まなければならないかが、よくわかります。「反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう」(一コリント14・24-25)。
 わたしたちが行う典礼もこのようなものでなければなりません。わたしたちの集会に入って来た、キリスト信者でない人が、ついには「まことに、神はあなたがたとともにおられます」ということができるようにならなければなりません。わたしたちがこのようなしかたで、キリストとの交わりの内に、また互いの交わりの内に生きることができるように、主に祈ろうではありませんか。

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